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掌編小説317 - サバとしめじを交換しています

2021年10月12日にステキブンゲイへ投稿した作品です。


内陸の小さな町で育ったので、海は昔から憧れだった。穏やかな波の音。海鳥の声。俗世の服を脱いだ人々の非日常的な営み。これからは仕事で、少なくとも月に一度は海に行けるのだと思うとわくわくした。仕事の合間にはたとえばコンビニコーヒーなんか買ってきて、スーツのまま、ちょっと波打ち際を散歩してみたり。

第二種交渉人というものになって早三年。海も、この妙ちきりんな仕事も、あれよあれよというまになんの感慨もわかない日常の一コマになりつつある。

「なぁ、おまえコロンブスが人魚を見たって話知ってる?」

海を訪れると、全国津々浦々、たいていのマーマンはこの話をしたがる。マーマン。男性またはオスの人魚である。性別がある以上、当然人魚もマーマンとマーメイドがほぼ同じ比率で存在しているわけだが、どういうわけかマーマンは人間界で圧倒的に知名度がない。人間が興味を示さないので、そのうちマーメイドたちもあまり興味を示さなくなった。モテない人間の男性またはオスがそうであるように、自然の摂理に従って、マーマンたちは総じて気取った皮肉屋だった。

「一四九三年一月八日、コロンブスがリオ・デ・オロを遡上中に三匹の人魚が飛びあがるのを見たという話ですよね」

アジ、サバ、カマスにタチウオ……積みあがった発泡スチロールのケースにたっぷり詰めこまれた魚を一匹一匹確認し、納品書に記された種類や数と照合していく。マーマンは太くごつごつした褐色の手でその黄金の髪を掻きあげ、岩場に寝転び、尾びれでちゃぷちゃぷと海面を叩きながらその一部始終を観察していた。

「へぇ、詳しいじゃん」

「研修のときに基礎的な知識は教わりますから。もっとも、インターネットにも載っているあまりに有名なエピソードなので、交渉人でなくとも知っている人間は多いと思いますが」

遠くでは人間か、あるいは人魚の子供たちがはしゃぐ声がしている。マーマンはそののどかな光景に不釣りあいなにやついた顔であごをさすり、それから、挑戦的な視線と言葉を投げかけた。

「俺、その三匹のうちの一匹なんだぜ」

相模湾沿岸。波は穏やかだ。クリップボードに留めた納品書の端が潮風でわずかにたなびいて、それを指や手首で上手く押さえながら、チェックボックスに淡々とチェックマークを打ちこんでいく。

「コロンブスが見たのは海牛――ジュゴンかマナティーだったというのが通説ですよね」

「もちろん、そうしておくほうが都合がよかったってことさ」

「なるほど。じゃあコロンブスが日誌に『絵に描いてあるように美しいものではなく、なんとか人間のような顔をしていた』なんて辛辣なことを書いたのも情報を隠蔽するためのフェイクだったんですね」

顔をあげると、マーマンは顔を真っ赤にして岩場から勢いよく飛びこみ、そのまま泳いで遠くへと行ってしまった。これまで方々のマーマンたちと幾度となく交わしてきた手垢のついた定型文のつもりだったが、湘南の若いマーマンたちはどうもプライドが高いらしい。

「ごめんなさいね」

と、別の岩場でやりとりを静観していたマーメイドがくすくす笑いながら髪を梳く。

「あなたをからかうつもりはないのよ。あの子たちは人間の完全さがこわいの。私たちマーメイドという完璧な美を、いつも、目の当たりにしているから。同族である我々も当然美しい、と思っているのね」

マーメイドは岩場を降り、しなやかな尾びれでもってくねくねと海面をわたると陸へあがってきた。魚だった下半身は海藻をまとわりつかせたなまめかしい人間の脚になり、やがて、七色の光沢を帯びた腰布になる。顔を背けるが、その肩を捕らえてマーメイドは耳元でささやいた。

「けれどあなたたちには脚がある。私たちのまがいものとは違う、完璧を凌駕する完全が。あの子たちにはそれがとてもこわいのよ。許してちょうだいね」

納品書のすべてのチェックボックスが埋まり、最後に署名、そして押印をして作業が完了する。近くの漁業組合で借りた軽トラックに荷物を積みはじめると、マーメイドが歌うように数人の仲間を呼んで華奢な身体でそれを手伝ってくれた。

「彼女たちによろしく」

見送るためにならんだマーメイドたちは皆妖艶に腕を組んでいて、それによって胸元が隠れたのでようやくまともに返事をすることができた。しかし運転席に乗りこもうと背をむけたその瞬間、またしてもマーメイドが肩に触れ、耳元でささやく。

「私は、あなたのこと好きよ」

思わずその手を振りほどこうとしたが、マーメイドが蠱惑的な笑みでひらりと身をかわすほうが早かった。

運転席に乗りこむ。人間、人魚、すべてから遮断されて、静寂。震える指で交渉先となる森林地帯の入口にナビを設定する。すっかりぬるくなったペットボトルの緑茶で一息ついて、それから軽トラックを発進させた。フロントミラー越しに確認するが、マーメイドたちの姿はもうない。

研修の際、ある第二種交渉人の男は「生きものにはすべてそれに対応する異界の生物が存在する」と語った。陸の人間、海の人魚。でもこの世界には空もある。いわば人鳥――ハルピュイアの存在を忘れてはいけない。

ほどなくして車は山へとつづく陰鬱な森の手前に到着した。交渉の合図はいらない。荷台へまわり魚の詰まった発泡スチロールの箱を下ろしていると、あたりはやにわに騒がしくなった。

「ようやくきた」

「待ちくたびれたよ」

「さっさとよこしな」

バサバサと乱暴に翼をはためかせ、枝や荷台のへりに止まる巨大な鷲。しかし胸元から頭までは老婆である。「あんた、ちょっと見ないうちにまた痩せたかい?」「毎日ちゃんと食ってんのかい?」「若いからって肉ばっかり食っちゃあだめだ。食べものはなんでも好き嫌いせず食わにゃ、あたしたちみたいに」ハルピュイアたちはしわがれ声で口々言うが、世話焼きの祖母がいる僕には慣れたわずらわしさなので淡々と仕事をつづける。

「受領証にサインお願いします」

「ああはいはい。どれ、ペンを貸しな」

ハルピュイアの長がやってきたので、胸ポケットに差していたボールペンを足で握らせてやる。老婆とはいえ、無防備に晒された胸元をしっかり視界に入れるわけにはいかない。露骨に目をそらしたのがばれ、ハルピュイアたちがけらけら笑う。

かつてハルピュイアと人魚――とりわけマーメイドは捕食と被食の関係にあったという。「掠める者」の名に恥じぬ食欲の塊であるハルピュイアたちは森の動植物たちだけでは飽き足らず、人里、やがては海にまで貪欲に食糧を求めた。最初のうちは貝や魚を捕っていた彼女たちだが、あるとき、とうとう異界の存在たる人魚を捕食する者があらわれる。殊に女の人魚は美味かった。みるみるうちに日本近海の人魚たちも一時絶滅の危機に瀕したが、第二種交渉人による迅速な対応により現在は双方の捕食を禁忌とし、第二種交渉人を介した良質で美味な海の幸・山の幸の交易を行うことで良好な関係を築きつつある。

「ああ、これは本当にいいものだ」

受領証にサインすると、ハルピュイアの長は鉤爪で器用に発泡スチロールの蓋を外し、良質な魚の山にうっとりと目を細める。やかましく鳴いていた周囲の者たちでさえ、このときばかりは顔を寄せあって静かに嘆息した。

「ここしばらく、人里にも下りていないようですね」

鷲を真似た声で長が一鳴きする。ハルピュイアたちは鉤爪で慎重に積み荷をつかむと、一斉にそれを森の奥へと運びはじめた。それを見守りながら問いかけると、長は空を見上げて神妙にうなづいた。

「人間にはもうすっかり興味がないね」

「なぜです」

「なぜってそりゃ、あのとき海で人魚のメスを見てしまったからさね。あたしらハルピュイアは美しさなどとうの昔にかなぐり捨ててしまったが、そんな老いぼれが見たってありゃあ美しい。美しいうえに美味いときてる。まさしく異界の存在だ。一体どんなもんを食ったらああなるんだか興味は尽きないよ」

――私は、あなたのこと好きよ。

刹那、耳元でささやきかけるあの歌声めいた言葉がよみがえってきて。

「あれは……彼女たちは、人間には完璧を凌駕する完全があると言っていました」

「完全こそ美だとのたまうかい」

「完全だけが正義なんです!」

右手を伝う衝撃。無意識に荷台のへりを拳で叩いていたらしかった。近くの草むらから小鳥が数羽飛んでいったが、ハルピュイアの長は動じない

「……僕たち、人間の世界では」

今さら、そんなことを力なくつけ加える。空はいつしか鈍色になり、湿気を含んだ生ぬるい空気があたりをただよっていた。雨が降るかもしれない。そろそろ事務所へ戻らなくては。

「あんた、耳が聴こえないね」

唇を噛む。沈黙は肯定と同じ意味になると、わかっているのに。

「もっとも、車の免許は取れているから比較的症状は軽い。あくまで聴きとりにくいという程度だろう。左耳だ。右耳からは人魚のにおいがする。さしづめそちらの耳で、あれになにか言われたんだろう。それであんたは怒ってる。耳を馬鹿にされたと思ってね」

長に導かれるように、左の耳を、自然と触っていた。「じじい」と指をさされ馬鹿にされてきた耳。完全には聞こえない耳。人魚やハルピュイア――怪物となんら変わらない、普通の人間ではない、中途半端な耳。

「あたしらハルピュイアは」

わざわざ右耳に語りかけるでもなく、ひとりごとのように、ハルピュイアの長は言葉を紡いだ。

「とにかく、食べても食べても腹が減る。無限に減るから、もっと早く、もっとたくさん食べられるように自ら望んでこの姿になった。人間どもにはさも醜く見えるだろう。けど、あたしはこの姿を気に入っているよ。完全を否定し、己が完璧のために歪さえ利用する。あまりに自然だ。そして、自然と調和する者だけが世界に楽園を見る」

頬になにかが触れる。雨粒だった。ハルピュイアの長は忌々しげに曇天を一瞥し、やがて翼を広げて荷台のへりを飛びたった。いくつか羽根が舞いあがり、大鷲のそれは、天使のような神々しさで。

「あれに悪気はないさね」

妖力、なのだろうか。はるか上空へ飛びあがってなお、そのしわがれた声は左耳ですら依然聴きとることができた。

「あれは、あんたに可能性を見たんだろう。救ってやりたいのさ。それとも海へ引きずりこんでしまいたいと言ってやったほうがいいかもしれないね。それがあれの本分なのだから」

ハルピュイアの長は森へと飛んでいく。努々忘れることなかれ。幾ばくかの羽根と言葉を残して。

「楽園への鍵はいつでもあんたの手の中にある。それをどうするかはあんたの自由だけれど、思うに、人魚に見初められたあんたほど不完全で完璧にこの仕事にむいているやつは他にいないね。どうかこれからも末永く、空と海、異界と異界をこの世界につなぎとめておくれ」

羽根は砂利に埋もれ、言葉も鼓膜に溶けてしまうと、あとはさあさあ絹糸のような細くやわらかな森の雨が降るだけだった。スーツにかかった雨粒を払って運転席に乗りこむ。バタン。陸と空とをさえぎる音。

電話番号から検索して、カーナビの目的地に漁協組合の事務所を設定する。車を返さなくては。エンジンをかけると、車は田舎道でわずかに上下しながらも静かに走りだした。

音楽を聴くのは大嫌いだが、代わりに、忌々しい左耳が日中聞いた穏やかな波の音をくりかえし思いだして再生している。空からは悠然と羽ばたく海鳥――いや、ハルピュイアの鳴き声がし、海のむこうでマーメイドたちが飛沫をあげてたわむれていた。

憧憬は音階を変え、少しずつ、楽園の三重奏へと変貌していく。

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