掌編小説047(お題:全力逆上がり)
夢を見ているようだった。
セツナはどちらかといえば人間たちが「夢」で片づけてしまう世界の住人だが、今そこにあるその光景のほうがよほど、セツナには夢のように感じられた。
空を駆けたのである。人間がだ。こうしてコソコソ彼らの世界に忍びこんではおかしなモノや愉快なモノを盗んで売りさばくのを生業にしているから、人間が飛べないことは知っている。まして駆けるなんて、飛べる連中だってやらないおかしなことだ。おかしなモノは好きだ。セツナは草むらの陰に隠れて、人間の様子をもう少しうかがうことにした。
男の童だ。固定された鉄の棒を両手でしかと握り、何度かぶらぶら身体を行ったりきたりさせたあと、えいやっと空を駆けてみせる。悔しさで今にもべそをかきそうなむすっとした顔をしていて、ははぁ、さてはまだ訓練の最中とみた。
「うおおおおお!」
突然童が大声をあげたので、セツナは猫のようにビクリと身体を飛びあがらせる。次の瞬間、ふたたびその足が空を駆けたかと思うと、童の身体はなんとくるりと一回転。そして、足からすこーんとなにかを落とした。
セツナはとっさに駆けよった。童の足が地に戻ってくるよりも早くそれを捕まえ、草むらへと逃げ戻る。ばれた様子はなかった。それよりもいたく喜んでいるようだ。なんと。まさか空を駆けることすら過程の一つで、そのまま、くるりと一周まわってしまうとは。
セツナは両手で抱えたそれをまじまじと見る。履きものらしかった。それ自体はどの人間も外を歩くのに使っているようだから目新しくはない。しかし空を駆ける、いや、それどころかそのまま一周まわってしまう不思議な童の履きものだ。これは価値があるかもしれない。セツナは今日の収穫が詰まった背中の風呂敷にこれを加えた。
「あれ、サンダルは?」
童が大きな声で履きものを探しはじめたので、セツナはギクリとして、急いで草むらの中を駆けだした。右に左にガサガサ進んでいくと、いつのまにかそこはもうセツナが暮らす世界だ。「危ナかっタ」セツナは一言ぼそりとつぶやくと、風呂敷を背負いなおして店々をまわりはじめる。
何軒か馴染みの店をまわって、最後に訪れたのはウタカタという露店商の爺さんの家だった。このセツナが認めるほどの変わり者で、人間が言うところの「記憶」や「思い出」がこめられていれば、その程度やモノそのものの価値に関わらずなんでも買ってくれる。売りそびれたモノはたいていここに持ってくればどうにかなった。本当になにかエピソードがあればそれを語ればいいし、なければ適当にでっちあげればウタカタは勝手に満足して値をつけてくれる。
「爺さン、こレはどうダイ?」
セツナは風呂敷をごそごそやって例の履きものを取りだした。ウタカタが、もともと糸のように細い目をさらに細めてよく見ようとする。興味があるようだ。セツナは言った。
「たダの履きモノじゃアねェぜ。なンと、世にモ珍しい空ヲ駆けル不思議な人間ノ履きモノだ。『サンダル』といウらしいがナ。片方しかねェのはソレだけ入手モ困難ダからっつゥモンよ。どうダい、サ、買っタ買っタ!」
ウタカタはそれを手にとってしばらくあちこちから眺めた。そらからセツナをジロリと見る。セツナは心得たというふうに、
「もチろん爺さン好みノ話もあるサ。俺は目ノ前で見たキたんダ。ソいつはどウやらまだ新米で、空ヲ駆けル練習をシていたんダがネーー」
今しがた見てきた事の顛末を、さながら芝居のように朗々と語って聞かせてやる。ウタカタは微動だにせず、一字一句、すべて聞き漏らすまいと耳を傾けていた。そうしてセツナの話が終わると、しばし思案したあと、やがてゆらりと立ちあがり金を用意してセツナにやった。「まイど!」セツナは機嫌よく家を出た。
銭の詰まった袋をのぞきこみながらセツナはにんまり笑う。思っていたとおり大金だ。今にも踊りだしそうな足どりで飲み屋が軒を連ねる横丁へと歩いていく。今日はうんと美味い酒が飲めるだろう。空をむいて、セツナは今さら、童にむけて歌うように言った。
「ありガとさン!」