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掌編小説027(お題:カスタネットたぬき)
日差しは熱く、小さい身体でひぃひぃ言いながらお道具箱を持って帰っていたので、あれはたしか一学期の終業式があった日。帰り道の途中、用水路を越えた先で、わたしは一匹の狸に出会った。
「げぷ」
歩道の真ん中で、狸はあおむけに寝転んでいた。周囲には食い散らかした虫や果実の残骸がある。わたしは縁石をまたいだ。あんなの踏んずけたくない。
「もし」
急いで横切ろうとしたら、たぬきはだらしない姿勢のままなんと人間の言葉でわたしを呼びとめた。好奇心には勝てなかった。手提げをきつく握りしめて、おそるおそる、わたしはそちらに目をやった。
「ぶしつけながらお嬢さん、ちょいと話を聞いていただけませんか?」
寝返りを打ち、狸は片手で腹をくるくるさすりながらわたしを手招きする。緊張感のないその姿は休日の父を連想させた。周囲に視線をはしらせる。通行人はおらず、車もときどき何台か走るだけだ。手頃な茂みにわたしは狸と身をよせあった。
「いやはや、大変見苦しい姿をお見せして申し訳ない。見てのとおり私は狸の中でも珍しく小食で痩せぎすでしてね、今、立派な腹鼓を鳴らせるよう目下太っている最中だったのです。鳥も虫も果実も手あたり次第に食べてはみました。もう限界です。ところがちっとも太りゃしない」
ここで狸は腹を叩いてみせたが、なるほど、期待していたようなポンッ! という気持ちのいい音は出なかった。
「背中の真っ赤な鞄。あなた『学校』というところに通っているのでしょう? 知っていますよ、ええ、あそこは大人が子供に知恵を授ける場所だ。そしてお嬢さんはじつに賢そうな顔をしている。どうでしょう、哀れな私になにか知恵を授けてはくれませんか?」
正直なところ、当時のわたしは国語の成績こそよいものの、他はさっぱりで賢くはなかった。それでも人間の言葉を話すこのまぬけな狸が愛おしく、わたしは子供なりに、しばらく腕を組んでうんうん唸ってみた。鼓舞するように狸が腹を叩く。ぺちんぺちん。うーん。ぺちんぺちん。うーん。ぺちんぺちん。
ようやくわたしは思いついて、手提げ鞄の中からよっこいせとお道具箱を取りだした。蓋を開ける。狸が興味深そうに鼻をひくひくさせるなか、わたしが手にとったのはカスタネットだった。
「これとかどう?」
「ふむ、どれどれ」
音楽の授業で教わった叩きかたをわたしは狸にレクチャーする。出っぱりのついた赤いほうを下にして。そうそう。もういっぽうの手で青いほうを上から叩く。カチン! うんうん、上手上手。
「おほーっ!」
はじめてのカスタネットに狸は目を輝かせた。
「なんとキレのいい響き。どれもう一度。おほーっ! 素晴らしい。お嬢さん、私カスタネット大変に気に入りましたぞ。腹鼓などもう古い。これからの狸はカスタネット。カスタネット狸の時代です」
カチカチ! カチカチ! リズムにあわせて狸は踊りだした。なんとキレのよい動き。とても「返せ」とは言えない雰囲気だった。わたしはあきらめてお道具箱をそのまま手提げ鞄にしまった。
「帰っていい?」
「やや、失礼いたしました。ありがとう、賢いお嬢さん。この御恩は決して忘れませんぞ。最後に名前をうかがっても?」
「かすみ」
「かすみ嬢。しかと覚えました。必ずやお礼に参りましょう。本当に本当に、本当にありがとう!」
そうしてわたしは、フラメンコらしきものを踊る狸を置いて帰路についた。
***
あの狸とは、それっきりである。
わたしは大学生になった。年上の彼氏もいる。スペイン留学の経験がある彼はあらゆるダンスに精通し、しょっちゅう、カフェオレを飲んでいる。飲むときは必ず「オーレ!」と奇妙な決めポーズをとった。愉快だ。だけど小食で、私より痩せていてスタイルがいいのが憎らしい。
ときどき、もしかして、なんて想像をすることもあるのだけれど、……まさかね。