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掌編小説316 - 新しい鳥

カナリアという鳥を、金成はまだ見たことがなかった。

スズメ目アトリ科カナリア属の小さな黄色の鳥だということは知っている。アフリカ大陸北西にあるカナリア諸島にちなんだ名だが、もともとの語源はラテン語の「canis(犬)」であることも。就職が決まってたった一ヶ月の研修期間のうちに身につけた知識だが、それ以前から鳥をながめるのは好きだった。スズメ。ハト。ミュージックプレイヤーのアプリを閉じ、イヤホンを外してしばしさえずりに耳をかたむける。好きなものを仕事にできることは幸福なことだと世間ではいわれていた。世間がいうならそうなのだろう、と、金成はまた自分に言い聞かせている。それが、その世間とやらにむかって開けっぴろげにはできないこんな奇妙な仕事だとしても。

「こんにちは」

川沿いにあるためか、小さく、なんだか横に広い公園だった。あちこちの公園で昔なつかしい遊具が老朽化や安全面の懸念から撤去あるいは封鎖される中、比較的まだ新しい公園のようで、ブランコやすべり台が危険視されることなく子供たちに使われている。そのむこう――三つならんだベンチのうち、右のベンチに男は一人で座っていた。

「えっと」

このときどうやって声をかけるべきなのか、適切な言葉を金成は未だ思いついていない。今の会社に就職して、ぼんやり仕事をしているうちにもう三年が経った。研修のときも「声かけれそうなタイミングで声かけて」としか教わっていない。お仕事中すみません。最初はこれでいいかと思ったが、本当にそうだろうか。たとえば自分が道で声をかけられたとき、それが「お仕事中すみません」だったら嫌だ。就職はした。でも、これを仕事だと、金成はまだ誰にも、自分にすら、胸を張っては言えない。

「なに?」

と、訊いて男は抱えていたギターをぽろんと爪弾く。

「すみません、ワタクシこういう者でして」

入社の折に購入して、そのままだらだら使いつづけている見るからに安物のケースから名刺を一枚取りだして差しだす。「カナリアレコード 金成歩」受けとったあと、そんなに穴が空くほど見つめられても名刺にはたったそれしか書かれていない。

「スカウトかなんか?」

「――ではないんです、すみません」

言ってすぐ目を閉じる。誰に教わったわけでもなく、一年目から自力で身につけた初歩的な自衛方法だ。

「カナリアの保護に伺いまして」

「は?」

そう、最初はまず「は?」と聞き返される。

「歌詞の中に『カナリア』が出てくる曲をお持ちですよね?」

一口にバンドマンと言ってもさまざまいるが、これでたいていの人間は身構えた。警戒して即刻立ち去る者もいる。過度なファン、もしくはストーカーの類と誤解されてその場で通報されたこともあった。そのくらいならまだ穏便だが、今しがた飲んでいた水や酒を浴びせられたり、一方的な口論へ発展して殴られたり、動画を撮られてあとでSNSにさらされることもある。そういう場合、報告すれば会社のほうで対処してくれるという話だったが、終業後も会社に残って顛末書を書かなければならないのは金成で、対処にまわされた先輩や上司にはもちろん嫌な顔をされた。だから最近はなにをされても黙っている。好きなものを仕事にできることは幸福なことだ。おまけに、自分でも変なことをしている、それを自覚しながら相応の理不尽に耐える、それさえできれば安くても給料は支払われるし楽な仕事だ。他の、まっとうな企業はどこも金成を選んではくれなかった。選ぶことができないのなら。選ばれたところで生きるしかない。羽をたたんで。檻の中をぐるぐるさまよって。

長い沈黙だった。

あとで動画をSNSに投稿されるのだろうな、と思いつつ顔を上げると、

「捕まるの、俺」

前髪の隙間からまっすぐにこちらを見つめて。彼はそうすることがルール、みたいにあたりまえのような顔をして金成に訊いた。

「捕まりません」

「じゃあ罰金?」

「罰金とかもありませんけど。その代わり、カナリアを保護した時点であなたはその曲に関する記憶をすべて失うので、二度と同じ曲はつくれません。それから、カナリアにまつわる曲を二度とつくらないという誓約もしてもらいます」

「嫌だって言ったら?」

「おれ――ワタシが困りますね」おそろしくスムーズに進む会話に困惑しながら意味もなく鼻をすする。「普通に、ノルマとかありますし。あなたにとっても悪い話じゃないと思いますよ。一般人のあいだでも、じつはすでにこの問題に気づきはじめている人たちがいるんです。ロックバンド、カナリアで曲つくりすぎだろって。それで今、バンドマンたちからカナリアを守ろうって活動する人とか、それを支持する音楽関係者も増えてて。カナリアを曲の中で飼うことが、じき不利になる時代が必ず来ます。そうなる前に、バンドマンとカナリアの双方を守ろうというのがウチの会社で」

「へぇ」

こんな戯言に、きちんと興味を持つ人間を金成は初めて見た。

「でも、曲がなくなるのは嫌だな」

「他にも曲はあるのに?」

「んー」

と、短く唸って彼は唇を噛む。

「『あいつもやっぱカナリアの曲つくったことあるんだって』とか、そんなしょうもない理由でライブハウス出禁になるとか、そのほうが嫌じゃないですか?」

「ライブにはもう当分出ないよ」

「え?」

むこうで遊んでいる子供たちに引けを取らない純真さで金成を見つめていた双眸が不意に伏せられ、彼は、そそくさとギターをしまってしまう。ハードタイプのケース。ライブハウスのステッカーがベタベタとあちこちに貼ってあった。どう考えても嘘だ。が、嘘をつくような人にも見えなかった。

「バンドは先月解散した」

そんなこと、会社からは一言も聞いていない。いや、どうだっただろう。聞いたのだろうか。どちらにしろ先月ならそれどころではなかった。大阪での仕事を「教育の一環」だとかで先輩に押しつけられ、そこで交渉相手とその仲間たちが逆上して警察沙汰になったから。

「メンバーの一人がライブの売上金持ったまま蒸発しちゃって、そのまま成り行きで」

「そうなんですか」

としか、金成には言えなかった。音楽とか、バンドマンという人々の生態についてはよくわからない。ファンと間違えられて体よくCDを買わされたときはせめて元をとろうと何回か聴いたりするが、あくまで移動中、作業中のやかましいBGMでしかなく、なにがいいとか、悪いとか。メンバーの一人がライブの売上金を持って蒸発してしまうことがどれほどのことなのかも想像がつかない。他に金成にできることは、

「カナリアって実際に見たことあります?」

そのまま立ち去るのだろうと思っていた彼が、溜息をついたきり、遠くを見つめて動かなくなってしまったから。なんとなく、そのとなりに腰かけて、同じ景色をながめることだけだった。

「ない」

「ですよね」

視線の先で、数羽のハトが子供たちのはしゃぐ声などものともせずにせわしなく首をふって地面のなにかをついばんでいる。

「なんでバンドマンってみんなカナリアの曲をつくりたがるんですかね」

「さぁ」

「そういうルールでもあるんですか?」

「どんな?」

「なんか、カナリアで一曲つくれないと一人前として認められないみたいな」

「なんだその板前システム」

遠くを見つめたまま、ふはっ、と彼は大きな口で笑った。

「昔、炭鉱に入るときは鳥かごにカナリアを入れて連れていったらしいですよ」

「なんで?」

「そうすると、たまにカナリアが急に鳴くのをやめたり、最悪死ぬこともあるんです。それは炭鉱内に有毒ガスが多い証拠だから、異常があったらすぐ炭鉱員たちを避難させるために連れていったとか。転じて、まだ起きていない危険や目で感知できない危険を知らせる人、状況のことを『炭鉱のカナリア』というそうです」

「ふぅん」

ざり、とスニーカーで地面を蹴る音がして。

「バンドマンは、そういう心境になることが多々あるってことでしょうか」

視線は交わらないまま、困ったふうに彼は首のあたりを手でごしごしこすった。

「他の鳥じゃだめなんですかね」

「たとえば?」

「ハトとか」

と、言って金成はおもむろに立ちあがる。気配を察したハトの群れがいっせいにこちらを見あげた。一歩、二歩、軽やかな足どりで近づく。エサになるものはなにも持っていないが、金成が近づくと、ハトたちはまるで親鳥を見つけたみたいに愉快に首を動かしながらぐるぐる鳴いてその足元を歩いてまわった。

「平和の象徴っていうじゃないですか。曲の題材としてもちょうどいいと思いますけど」

ラブアンドピース。陽光の中、彼はいつのまにか遠くのどこかではなくじっと金成のことをまっすぐ見つめている。ハトたちを従えたまま、鳴き声をときどき真似つつ、気まぐれに周辺をぶらついてみた。ハトたちは律義にそのあとを追った。彼の視線も。

バチン、と金具の開く音がして。

顔をあげると、一度はしまったギターを彼はまた膝上で抱えた。一本、二本、弦を爪弾く音。それが合図みたいに、不思議と周囲は少しの緊張をともなった静寂に包まれた。十月。暦を無視して、きっとすぐに長くてさむい冬が来る。その前につかのまのあたたかな光。その中で影が揺れて、

「――――」

彼は、不意に歌いだした。

鳥が好きだ。朝、目覚めて最初に鳥のさえずりが聞こえたとき、身体の底、へそのあたりがぽっとあたたかくなるような心地がする。同じことを、まさか鳥も思っているのだろうか。物心ついたときから、金成はなぜか鳥たちに好かれた。将来は鳥の博士になるのかな。母は期待に胸ふくらませてよく言ったものだ。でもそうはならなかった。大学には行ったが鳥の勉強はしていない。そこにいる鳥を、金成はただ、無心でながめているのが好きだった。

だから、カナリアについてもほとんどなにも知らない。

実物を見たことさえない。

だが、カナリアとはきっとこんなふうにさえずるのだろうと――彼の歌声を、息をするのも忘れて聞いたとき。確信を持ってそう思った。

「なんて曲ですか」

「知らね」

悪びれもせず即答したあと、

「今適当につくった」

おどけるように、じゃん、と小気味よく彼は弦を鳴らしてみせる。

「いやいやいや、どう考えても気まぐれのクオリティーじゃなかったでしょ。忘れないうちにタイトルなり歌詞なり考えて脳に刻んでください。もったいないですよ。あ、もちろんカナリアはNGワードで」

「ええ……」

詰めよる足に力が入りすぎたのか、ハトたちはいっせいに空の彼方へと飛び去っていった。母親に手を引かれて、子供たちもいつのまにかいなくなっている。公園に残ったのはこれで金成と彼の二人きりだ。世界から切り離され、もはやおたがいにおたがいしか見るものがなかった。

「じゃあ『ハミングバード』で」

「あんたらそれもすぐ使うな」

「辛辣ぅ」

ぴったり同じタイミングで、二人は笑った。

「タイトル、おまえが決めていいよ」

「え」

なんで、と訊く間も与えず、彼はまたメロディを口ずさみはじめる。歌詞はない。けれどその声の中を、五線譜の空を、一匹の鳥がたしかにさえずりながら羽ばたいていた。ハミングバード。なるほど言いえて妙かもしれない。が、

「『新しい鳥』」

つぶやくと、彼は口をつぐんでこちらを見やる。

「面接のとき社長から聞いた話なんですけど」

その日、面接は社長と一対一で行われた。「鳥は好き?」と訊かれ、「好きです」と答えたと思う。それからしばらく、二人とも野鳥観察が趣味だという話でひとしきり盛りあがって。「それじゃあ、来週の月曜日から来てください」にこにこうれしそうに笑って社長は言った。団子みたいにぷっくりとした恰幅につぶらな瞳。巨大なスズメみたいな人だなと感心しながら、はい、と言ったその瞬間の風景だけが、いつまでも、色のない日々の中で鮮明に記憶に残っている。

「鳥って今でも新しい種類が増えつづけてるらしいですよ。DNAを用いた分子系統学の研究が進んで、姿がそっくりだからてっきり同じ鳥だと思っていたらじつは違う種類だったってケースも相次いでて。全部の分類が終わる頃には二万種にまで膨れあがってるんじゃないかって予測もされてるんです。そしたら、おれたちが知ってる鳥も今とは違う種類に分類されて新しい鳥になる。……それってなんかめちゃくちゃワクワクしません?」

話しすぎているな、とは、自分でも思っていた。

だから、そのとき突然わずらわしい電子音が鳴り響いても金成は驚かない。ポケットをまさぐってスマートフォンを取りだす。会社からだった。先輩の番号だ。金成以上に仕事への熱意はなく、三年前ようやく金成が入ってきて先輩になったことで、なんでもかんでも「教育の一環」として押しつけてくるカッコウみたいなやつ。

「出ないの?」

「ちょっとすみません」

通話ボタンを押した瞬間から「教育」ははじまる。「ハイ」「スミマセン」「ハイ」「モチロンデス」「ハイ」「スミマセン」先輩からありがたい教えをたまわるあいだ、金成は芸を仕込まれた小鳥だった。社長と話したのはあの一度きりだ。窓の少ないあの窮屈な檻の中、人間でいられたのも。

「スグニモドリマス」

最後の羽をむしられて、秋風に身ぶるいしながら電話を切る。

「戻るの?」

「そうですね」

また保護できなかったな、と、それは内心でこっそりつぶやいてそっと溜息をつく。もちろん、基本的には相手が折れるまで何度でも説得へ赴くようにと会社からは言われているが、彼ならばこのままカナリアを預けてもいいのではと思う。音楽のことはよくわからない。けれど、彼の音楽と歌声の檻でなら、カナリアはきっと幸せに暮らせるという気がした。

「じゃあ歌詞考えといて」

「え」

完全に油断していて、思わず、カラスが鳴くときみたいな声が出た。

「明日、同じくらいの時間にここ集合な」

「なんで?」

動揺しすぎて敬語さえままならない。

「この曲が完成したら――いや。曲が完成して、おまえが歌ってくれたら。カナリアの曲はもうつくらないって約束する」

「は?」

「悪い話じゃないだろ?」

と、澄んだ瞳をむけたまま彼は二度目をしばたたかせた。

「とりあえず、聴いてて思いついたことがあったらなんでもメモしておけばいい。そしたら、上手くつないで俺が歌詞にする。帰ったら録音して音源送るわ。名刺に書いてあるこのアドレスでいいよな?」

語尾には明らかにクエスチョンマークがついていたはずだが、返事を待たず、そそくさとギターをケースにしまって彼もまた立ちあがった。

「歌うのだけは勘弁してくれませんか」

「なんで?」

「おれ、音楽のことはほんとになにもわかんないんです」

「でも好きだろ?」

鳥のように。瞳孔は真円で、これ以上見つめていては吸いこまれると思わせるほど黒く澄んだ瞳だった。でも好きだろ? 耳輪にとまり、カナリアがくりかえしさえずる。炭鉱のカナリア。まだ起きていない危険や目で感知できない危険を知らせる、予兆?

「他のやつがどうかは知らん。でも、少なくとも俺にはそれで充分だ。おまえ見てて思いついた曲だしな。とりあえず、おまえが歌ってるのを一回聴いてみたい。わかんないことは全部俺にぶん投げればいいし、最初はとなりで好きにさえずってればいいよ。そうしてれば、そのうちおまえの中で正解が見つかる。それを追っていれば、新しい鳥にもいつかまた新しい居場所が見つかって、それが普通になる」

ああ、と合点がいったふうにつかのま空を仰いで。

「なるほど。たしかに、こういうのってちょっとワクワクするな」

と、あまりに無邪気に、彼は金成の肩をぽんと軽やかに叩いた。

「また明日」

冬の入口にむかって、彼は大股で颯爽と歩いていく。

思わず手を伸ばしてしまうほど。

まばゆく、美しかった。



その日の夜。通例どおり、皆が帰ったあと一人きりで会社に残って山積みの仕事に追われているときに音源は送られてきた。「カナリアくんへ」という件名だけのメールに音声データが添付されている。カネナリだっつの。内心つっこみを入れつつ、なんだかんだ作業の手を止めて金成はノートパソコンにイヤホンをつないだ。

音源を、丁寧に三度聴く。

三回目、ふたたび再生ボタンを押すその瞬間、こんな安物の有線じゃなくてワイヤレスのもっと音質のいいイヤホンを買おう、と、ちょっとだけ意識が脇道にそれた。マウスのそばには電話を取ったときのためのメモ用紙が用意されていて、そこにいくつかの言葉が散らばっている。書き留めた言葉を、音に載せて小さく読みあげてみた。

拙い声だ。

だが、鳥は世界の片隅で歌いはじめた。

本当の、正しい居場所は、遠くない未来にきっと見つかる。



カナリアを題材にした曲はこの世にたくさんありますが、今回は作品を書くにあたりWOMCADOLEの『カナリア』をたくさん聴いて参考にしました。とても大好きなバンド、曲です。作品を読んでくれたあなたと大好きなものを共有できるなら。これほどうれしいことはありません。


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