掌編小説035(お題:片足だけのサンダル)
どうして欲しかったのかはわからない。ただ、夏祭りの喧騒から隠れるようにひっそりと神社の片隅に開かれていたその不思議な露天の前を偶然通りかかったとき、欲しいな、と思ってしまったのだ。片足だけのサンダルを。
それは、ところどころについた泥汚れをものともしない、鮮やかな水色のサンダルだった。手にとったわけでもないのに、鼻の奥にたちまち濃い土や草のにおいを感じ、脳裏に雄大な青空が浮かびあがる。くるり。世界がまわった。心が弾む光景だった。
惚けたようにサンダルを見つめたまま、ください、と耐えかねたように言葉を吐きだしていた。
笠を目深にかぶりうつむいている店主は口角で器用にはさんだキセルをくいとやり、それから、どうぞとばかりにサンダルへ顎をしゃくってみせる。コロコロコロコロ……。コオロギの声がいっそう騒がしくなる。
「対価は勝手にモらッテいくサ」
値段を訊ねようと口を開くよりも、店主がしわがれた声でボソリと言うほうが早かった。
たちまち全身から煙のようななにか白いもやがしゅるしゅると出てきて、それは、店主のキセルへと吸いこまれていく。あっというまだった。事が済むと店主は枝のような手をぱっぱと払った。もう行け、ということらしい。
片足だけのサンダルを持って足早にそこを離れる。夏祭りの喧騒を過ぎ、商店街を過ぎ、ひしめきあう家々を過ぎ、気づけば帰るべき場所を前にポツンと立っていた。気配を察したというのだろうか、母が、妙なタイミングでドアを開け「おかえり」と出迎える。
「あら、そのサンダル」
両手でしっかりと胸に抱きとめているものを見て、母は、やわらかく目を細めながら笑った。
「小さい頃に公園で逆上がりの練習して片方なくしたやつじゃないの? なつかしい。どれだけ探しても見つからなかったのに、今頃どこで見つけてきたの?」
そのとき、脳裏になにか記憶が駆けめぐるような気がして。だけどそういう感覚がするというだけで、どれだけ心の奥をまさぐってみてもなにも思いだすことができない。公園。逆上がり。サンダル。そんなこともあっただろうか。いつ?
キッチンのほうからカレーのにおいがする。「手を洗ってきなさい」母に促されて玄関をくぐり、家の中へ足を踏みいれる。扉が閉まるその瞬間、ふと、外のほうをふりむいた。
夏の終わりの濃い闇が、ただ、静かにあるだけだった。