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掌編小説318 - はぐれもの

2023年2月16日に執筆した作品です。


そもそも、霊能力者という存在についてその名称以外はほとんどなにも知らない。なのでどこまでを「普通」とするかはさておき、とりあえずこの界隈でもっとも腕が立つというその霊能力者は、六番街と呼ばれるはぐれ者の吹きだまりのような地帯に自宅兼事務所を構えていた。

なんとなく昔ながらの日本家屋で、しかもボロ家を想像していたのだが、予想に反して三階建ての雑居ビルのちょうど三階部分である。ただ、ボロというのは当たっていた。三階へ到達するための術は僕でもこたえる急で硬い階段しかなく、途中通りがかった一階と二階に誰かの気配はまるでない。紹介されたから僕は来たけれど、そうでなければこんな廃墟同然のビル、このあたりをうろつく浮浪者でも寄りつかないだろう。そんなわけないとわかっていても、階段を一段のぼるたび、不思議と次の段差に足をかけたら今度こそ崩れるのではという嫌な予感に襲われる。

精神的にも体力的にもやっとの思いで三階まであがると、両脇にスチールドアが一つずつついていた。左のほうは菱形にワイヤーの入った半透明のガラスに「御手洗」と小さなプラスチックのプレートが貼りつけられていたので、たぶん右が目的の自宅兼事務所とやらだろう。

看板どころか「御手洗」のようなプレートさえどこにもないので不安だったが、何度か躊躇したあと、思いきって二回ドアをノックしてみる。「おー」とむこうから応答があった。次にとるべき行動に迷う反応だ。「おー」ってなんだろう。入れ? それとも、今行くからそこで待ってろ? ……もしかして、帰れ、だろうか。

しばらくその場でおろおろしていると、やがて、むこうから唐突にドアが開く。

あらわれたのは、ワンピースほども丈のあるルーズシャツに羽織、下はスカートみたくゆったりとしたシルエットのパンツを履いて、裸足にサンダルという男だった。首から下は徹底して黒なのに、髪は赤く、赤紫色のおしゃれなサングラスまでしている。霊能力者というからてっきりおじさんを想像していたのだけれど、少なくとも見かけは思った以上に青年だ。

「こんにちは」と、まずは言う。「えっと、霊能力者のハグレさんですか?」

「そうだけど」

「僕は、その、マツヨイさんという方の紹介で来て」

「ああ」

マツヨイ、という名前を聞いてなにもかも合点がいったらしかった。ドアを押さえたまま身体をわずかにずらし、入れ、と無言で促される。

「なんか今日寒くね?」

「まぁ、二月ですし」

「適当にそこらへんとか座って」

「はぁ」

一度客と認識すると、あとはまるで先週も会った友達みたいな気さくさだった。むしろこちらが友達であることを忘れてしまったのかと疑ってしまうほど自然に僕を応接用のソファーへ座らせてコーヒーの支度をするので、

「あの、金縛りについて相談に来たんですけど」

カップが置かれたタイミングで勇気を出して告げると、

「知ってる」

ハグレさんはコーヒーを啜りながら一度デスクへとむかい、

「じゃ、これ書いて」

引きだしからなにかを取りだして戻ってくるなり、カップを置いて、対面のソファーに飛びこむようにして寝転がる。あちらのお客様からです、と聞こえてきそうな動きで眼前にすべりこんできたのは、黒のボールペンと、それから一枚のA4用紙だった。

僕はなんとなく、霊能力者とは探偵みたいなものだろうと両者を同一視していた。だからマツヨイさんに霊能力者を紹介してやると言われたとき、最初にしたのは古本屋でミステリー小説を買って探偵や探偵事務所について勉強することだった。それによると、「依頼人」というのは事務所へ行くとまず応接スペースへ通されて、コーヒーもしくはお茶を出され(ここまでは正解だ)、そのあとで依頼内容について簡単な問答というか打ちあわせというか、カウンセリング? のようなことをされる。らしい。

ところが実際コーヒーの次に待っていたのは、

「なんですかこれ」

「キャラシート」

氏名、年齢、性別、果ては一人称からイメージソングなど、二十ほどの記入事項が設けられた謎の用紙に記入する作業。――いや、今なんて?

「おまえTRPGとかやったことねぇの?」

よっぽど間抜けな顔をしていたのだろう。両手を枕代わりに仰向けに寝転んでいたハグレさんがわずかに頭を傾けてこちらを見、それから、眉をひそめてみせる。

「ないです。『T』ってなんの略ですか?」

タクティクスゲームというのは聞いたことがあるけれど。それのことだろうか。だがその質問には答えてくれず、

「まぁいいや。とりあえず、そこに理想のおまえのステータス書いてみて」

と、よくわからないことをハグレさんは言った。

「理想の僕、ですか?」

「そう」

「現実の僕ではなく」

「そう」

寝転んだまま熱々のコーヒーを器用に啜り、脱げかかっていたサンダルを潔く彼方へ放りだして羽織の袖に片手を突っこむ。ガサガサと音がして、なにかと思えば出てきたのは小袋に入ったたまごボーロだった。かわいらしいうさぎのイラスト。まごうことなき幼児向けだ。食う? と視線に気づいたハグレさんに嫌そうに問われ、結構です、と答えると心底よかったという顔をしてむしゃむしゃそれを食べはじめる。一粒、また一粒とまるで機械のように一定のリズムで口の中へ放りこまれていくたまごボーロ。こんなところで、僕はいったいなにをしているのだろう。

「金縛りに遭うのは、おまえの魂が〝むこう〟に引っぱられるからだ」

ボールペンにも手を伸ばせないまままごついていると、突然、咀嚼をやめてハグレさんは言った。

「まぁ、なんだろうな。喩えるなら電話か? 魂ってのがスマホ。あっちが発信者で、おまえは受信者だ。本来ならこの電話に応答するかしないかは受信者のおまえが自分の意思で自由に決められるんだが、見たところ、おまえのスマホはどうも故障してるらしい。電話が鳴ると勝手に応答ボタンが押されちまう状態になってる」

ここで袋を傾けて残りのボーロをざらざらと口に流しこみ、コーヒーを一口啜って、ハグレさんはつづける。

「金縛りの原因にもいろいろあるが、おまえの場合は間違いなくこれが原因だ。強制的に、しかも半端に意識を持っていかれるから、そのときおまえの身体は一時的に思いどおりにいかなくなる」

「なるほど」

自然と小さく言葉が漏れる。この界隈でもっとも腕が立つ霊能力者の元へ相談に来たのだということをようやく思いだした。

「でも、それとこの『キャラシート』とやらにはなんの関係があるんですか?」

「魂を定着させるんだよ」

寝転んだ頭の先にある、経費削減のために節電しているのか、それとも単純に交換するのが面倒なのか、おそらく後者の理由で消えた蛍光灯をなんとはなしに眺めながら、ハグレさんはあくびをしつつ答えた。おなかがいっぱいになってねむくなってきたらしい。たまごボーロに昼寝。幼児からさらに逆行してもはや赤ちゃんだ。今しがた感心した気持ちを返してほしい。

「魂が強いってのはどういうことかわかるか?」

「えっと……精神的に強い、ということでしょうか」

「だから、精神的な強さってなんだよ」

難しい質問だ。哲学者と話をしているような気分になってくる。

「なんでしょう。たとえば、なにか困難にぶち当たったとき、何度でも立ちあがって挑戦しつづける勇気、でしょうか」

「簡単に魂引っぱられちまうようなヤツはみんなそう言うんだよな」

そう言って、ハグレさんは盛大な溜息をついた。

「いいか、本当に強ぇヤツってのは、困難にぶち当たる前にはもうとっくに対策練ってるんだよ。武力や精神力を強さって言ってるヤツは二流だ。魂から強くなるには、筋肉やメンタルよりもここを鍛えなきゃならねぇ」

と、ハグレさんは羽織から引っぱりだしてきた右手の指先で自らのこめかみ――脳のある場所をトントンと叩いてみせる。

「そのためにはまず、おまえがおまえについて深く理解する必要がある。なにが好きでなにが嫌いか。なにが得意でなにが苦手か。なにを知っていてなにを知らないのか。そのキャラシートは遊びじゃねぇし、俺のために書くんじゃねぇ。おまえがおまえのために、どうありたいかを再認識するためのもんだ」

六番街。誰ともつるみたがらない、社会、いや世界からつまはじきにされたはぐれ者が最後にたどりつく場所。そのさらに奥にある、誰も寄りつかないこんな廃墟同然のビルでハグレさんがひとたび口を閉ざすと、二月の静寂はさながら雪のようにしんしんと二人のあいだに降り積もる。

静かだった。息をするのもためらわれるほど。

それでも、僕は最終的に、意を決してボールペンに手を伸ばす。カチ、という音がしても、ハグレさんはわざわざそれに反応したりしない。彼を信じてみようと思った最後の理由は、その、ややもすると見過ごしてしまうほんのささやかな優しさだった。

「一つだけ注意事項がある」

「なんですか?」

「理想の意味を履き違えないでくれ」

注意事項というより、それは、祈りのような声音だった。

「魂を定着させるためには、おまえがその魂の正当な持ち主だと自信を持つことが肝心だ。自信ってのはつまり、己の在りかたを受けいれるってことだな。キャラシートはそのためのツールだが、いいか、『べき』を前提にするな。勘違いするヤツが多いが、理想ってのは『こうあるべき』じゃなく『こうありたい』って話だ」

「それって、なにか違うところあります?」

「全然違ぇよ」

まるで紫煙でも吐くような気だるさでハグレさんは言葉をこぼす。それから膝を立てた左脚に右脚をかけ、両手はそれぞれ羽織の奥へ突っこんで寒そうにぶるりとふるえた。そういえば、この事務所の暖房といえば灯油を燃焼させるタイプの古いストーブが一台稼働しているだけで、薄着のハグレさんはたしかに寒そうだ。寒いと言いながらあんな格好をしているのだから、単にものぐさか、それか仕事着としてあの格好にそれなりのこだわりがあるのかもしれない。後者ならば、その話はちょっと聞いてみたいと思った。自分でも意外だけれど、これだけ横柄な態度をとられていながら、僕はこのヘンテコな霊能力者のことをだんだんと好きになりはじめている。

「まったくの別物だ」と、ハグレさんは鼻をすする。「まず、『こうあるべき』を理想にすると、できたかどうかの成果で自分を評価する癖がつく。成果で成立する自己肯定感ってのはむちゃくちゃ脆いぞ。一つでもなにかできなかった瞬間、これまで積みあげてきたものが丸ごと一気に崩れるからな」

「それは、……たしかに心当たりがあります」

実際、僕が金縛りに遭うようになったのは、周囲と比べて自分にはできないことが多すぎると知ってしまったからだ。

「一方で、『こうありたい』ってのはあくまで姿勢、心がけの話だ。実際にできたかどうかは関係ない。仮にできなかったとしても、次はできるようにがんばろうと意識した時点で及第点だからな。これを受けいれたときの自己肯定感は強い」

「甘えてるって、まわりには言われそうですが」

「自分を甘やかすのも在りかたの一つだろ。その在りかたを否定するヤツがいたとして、それが自分にとって不快なら、そいつとは縁を切るか、できなきゃ物理的かあるいは心理的に距離をおけばいいだけの話だ」

要するに、と言いながらハグレさんがおもむろに右手を羽織から出す。手には個包装された使い捨てのホットアイマスクが握られていた。おやつにホットアイマスク。赤ちゃんだったりOLだったりいそがしい人だ。どちらにせよ、どちらでもないはずなのだが。

「人としてどうあるべきかじゃなく、自分はどうありたいかを意識して書けってこった。書いててつまづくところがあったら、そのときはおまえ自身の価値じゃなくて、おまえが価値をおきたいもの、大切にしたいものに意識を飛ばせ。そこにだけ嘘をつかなきゃ、内容自体はなんだっていい」

「わかりました」

ストーブの稼働音だけが響く中、ようやく、僕は「氏名」の欄に自分の名前を記入する。それを見届けてから、ハグレさんは静かにサングラスを外してホットアイマスクを装着した。こんな場末のおんぼろビルで嗅げるとは思いもしなかった、ラべンダーの心安らぐほのかな香り。ハグレさんの深い呼吸の音をBGMにして、僕は一枚の紙の上に、理想の自分、本当の自分の姿を、丁寧に大切に築きあげていく。

「――書けました」

TRPGというものをやったことがないので、書きあげるまでには三十分くらいかかったと思う。声をかけると、ハグレさんはもうすっかりホットでなくなったアイマスクを外し、目をこすりながら「おー?」と語尾にクエスチョンマークをつけて応じる。寝ていたのかもしれない。起きあがったままソファーの上であぐらをかき、一度紙面を見やって、グッと目を細めたあと思いだしたように胸ポケットに差していたサングラスを手にとってかける。サングラスだと思っていたが、察するに、あれはカラーレンズでつくった眼鏡のようだ。

「まぁ、こんだけイメージ固まってりゃ問題ないだろ」

あごをなでながらキャラシートを上から下までざっと目で追って、ハグレさんはカップに残ったコーヒーを一気に煽る。

「じゃ、除霊するからそのままそこで横になれ」

「えっ」

唐突に言うので、思わず素っ頓狂な声が出てしまった。

「除霊ですか?」

「は?」色の薄いレンズなので、ハグレさんがそのむこうで怪訝そうに目を細めるのがよく見える。「除霊だよ。霊を除くと書いて除霊。逆になんでしないと思った。なにしに来たんだよおまえ、ここ心療内科じゃねぇんだぞ。冷たっ!」

裸足でタイルの床に触れて跳びあがる。そういえば、寝転ぶときにサンダルはあっちへ放っていたっけ。ペタペタ音をたててそそくさとサンダルに足を突っこみ、そのままハグレさんはデスクのほうへむかっていく。

「除霊っつってもたいしたことはしねぇよ。そもそも除霊ってのは名ばかりで、取り除くのは厳密にはあいつらそのものじゃなくてあいつらの痕跡だしな」

「どういうことですか?」

おそらくは除霊に必要な、なにかしらの道具を一式持ってハグレさんが戻ってくる。塩はなんとなくわかるけれど、他の、あのヘラとか円錐型のあれはなんだろう。逆に、数珠とか十字架とか、お札とか、そういう素人でも思いつきそうなものは見当たらない。

「さっき、あっちが発信者でおまえは受信者だって言っただろ」輪ゴムでがさつに閉じていた袋を開け、塩をヘラで円錐型の謎の器に移しながらハグレさんが説明してくれる。「程度を問わず、一度でも両者のあいだで交信が成功すると、受信者の魂には発信者の介入の痕跡が残っちまうんだよ。この痕跡は早いうちに消しておかないと、これをとっかかりにしてあいつらは二度三度とまた交信を試みる。成功したときに残った痕跡を媒介するぶん、今度は一度目よりスムーズだし完璧だ。完全に魂が引っぱられるようになったら金縛り程度じゃ済まねぇぞ。最悪、引っぱられたきりそのままこっちに帰ってこれなくなる可能性だってある。……つまり、死ぬってことだ」

半分ほど入れた塩を指でギュッギュッと押して固め、さらに塩を追加すると、今度はヘラでそれを均等にならしていく。裏返しにした小皿を上に載せ、ひっくり返すと、あっというまに美しい盛り塩が完成した。僕が暮らしている三番街でも玄関先などに盛り塩を置く家はあるけれど、つくるところを見るのは初めてだった。なるほど、あれってこんなふうにつくるんだ。

「おまえはそこに寝転んで、今書いたキャラシートどおりの理想の自分について、なんかいろいろ適当に妄想しといてくれればいい。そうしてると、おまえの魂は新しい自分の在りかたを目指して形を変える。痕跡ってのは半端な魂だからこそ存在できるわけで、魂が形を変えて強くなれば、やがて居場所を失って魂の外側へと表出する。それを俺が消す。簡単だろ?」

手際よく六つの盛り塩をつくって、ハグレさんは、ニッと笑った。

「ガチっぽく見えるかもしれねぇがビビんなくていいぞ。俺の場合、俺なりのルールに則って、ディテールにこだわればこだわるほど力が高水準で安定するってだけだ」

言いながら、ハグレさんがソファーの上で横になった僕の周囲――具体的には、頭と尻の方向に一つずつ、左半身と右半身の方向に二つずつ盛り塩を配置していく。それから目を閉じろと指示があり、おそるおそる目を閉じた。最後に見たのは、僕の身体に片手をかざすハグレさんの、ぞくりとするほど真摯な顔。

「俺たちの頭には一日五万回もの考えが浮かぶ」

一切の視覚情報がなくなると、ハグレさんの声はなんだか別人のように聞こえる。飄々としたうさんくさい雰囲気などまるで感じさせず、それは、まるで。

「おまえの言葉を、誰より一番聞いているのはおまえ自身だってことだ。無理にとは言わねぇが、なるべく前向きな想像をしてくれ」

「はい」

「はじめてくれ」

ハグレさんの合図で、想像の絵筆を握る。それから一度深呼吸をして、氏名、年齢、性別――キャラシートに記入した項目を一つずつ思いだしてイメージしていった。僕の理想の姿。「こうあるべき」ではなく、これから「こうありたい」と心がけていく姿。

どうして僕は生まれてきたんだろう。

どうして、僕みたいなのが生まれてきてしまったんだろう。

答えなんてわからないのに、わかったところで結局そのあとも生きるしかないのに、ときどき考えずにはいられなくなる。否定はしない。悩みたいわけではなくて、たぶん僕は、逃げずに考えたいだけなのだから。それを弱さと、愚かさと、誰かは言うかもしれない。でも僕は言わない。僕は、せめて僕だけは、今こうして生きている僕を、許そうと思う。

「おまえ、ヤクモっていうのか」

不意に、ハグレさんの声が聞こえてきて。

「いい名前だ」

その声は、春の訪れを知らせる太陽よりきっと、ずっと、優しかった。


***

「にしても、今日はまた一段と冷えるねぇ」

応接スペースのソファーで丸くなったマツヨイが身体をぶるぶるふるわせながら言うので、札を数える手がますますかじかむ。一、二、三……かじかむ指先で何度数えたところで、今回の報酬はどう見ても七万円だった。七万円。七万円?

「なぁ、三万足んねぇんだけど」

「そりゃあ、あっちの世界まで送ってやったのはこのマツヨイ様だからな。紹介料と代行費用、合わせて三万が妥当だろう。あらかじめ報酬から引かせてもらったぜ」

「ふざけんな、代行ったって五番街まで見送っただけだろ」

「五番街だろうが裏口には変わらねぇ。まっとうな輩に見つかりゃ御用、同族に見つかっても口封じになにかしら取引させられんのがオチだ。面倒ったらありゃしない。むしろたったの一万円で引き受けてやったことに感謝してほしいね」

こんな吹きだまりにまで手を伸ばして商売しているくせに、よくもいけしゃあしゃあと。自分のことを棚にあげて思わず溜息をついてしまう。口は達者だが、マツヨイの見かけはほとんど犬か狐だ。やろうと思えば力づくでその一万を奪い返すこともできる。が、やめた。動物を殴る趣味はないし、それに、寒すぎていちいちそんなことをする気力もわかない。

「ちゃんと一万円分の働きはしたんだろうな?」

「おう。土壇場でちょいと一悶着あったが、最後はちゃんと覚悟を決めてあっちの世界に行ったよ」

「そうか」

七万円を金庫にしまい、ボロの椅子を軋ませて背後の窓を見やる。この世界にも月日や時間の概念はあるが、六番街はいつでも夕日に染まっている。景色はほとんど変わらないが、今日は雲が多かった。幾重にも重なりあった雲。そう、あいつの名前はたしか「ヤクモ」だった。

「これで終いは寂しいと、あいつ、駄々をこねてたぞ」

そうだろうなという気はしていた。だから、見送りはマツヨイに任せたのだ。そこに俺がいれば、あいつは俺を頼っただろう。あいつの魂を、在りかたを、俺なら修正できる。そしてあいつに頼まれれば、たぶん、俺は。

「むこうで生きると決めたのはあいつだ」

こんにちは。ドアを開けたとき最初にあいつが言った言葉とその顔を、なぜか、思いだしている。八本あるうちの、ノックをしたきり所在なげに虚空で留まっていた、右の一番前の足。碁石みたいにつるんとまんまるな八つの瞳で俺を映すそのさまはまるで万華鏡で、おそろしいというより、愉快だった。蜘蛛にかぎらず、基本的に虫はどいつもこいつも嫌いだ。でもあいつとは、なんとなく、友達になれただろうなという確信がある。運命さえ、ほんの少し、違っていれば。

「あっちでは土蜘蛛として生きていくんだったか?」

「らしいな」

とっくに冷めきったコーヒーを啜りながら、あいつが残していったキャラシートを手にとる。

「わざわざあっちで妖怪だなんて、上手くやっていけんのかねぇ。二流、いや、三流の輩に降霊だの除霊だのされちまうほど弱っちぃんだろ、あいつ」

「だからおまえんところに話が来て、俺が紹介された。それが答えだ。半端な霊感や知識じゃあいつはもう倒せねぇ。やりあうなら前提として俺以上に優秀な霊能力者である必要があるが、そんなやつは一握りだし、そういうやつはたいていすでに金と自己顕示欲に憑かれちまってるから役には立たねぇよ」

「なるほど、そいつぁたしかに俺たちよか厄介だ」

カッカと歯を見せてマツヨイが笑う。羽織の袖口に手を突っこんで、たまごボーロの小袋を一つ取りだした。食うか、と単なるポーズとして訊いただけだというのに、こいつは遠慮というものを知らない。遠く離れたソファーの上から大口を開けてみせるので、仕方なく何粒かを投げてやった。

「ところでハグレの旦那、あんた、なんで俺たちの側についた?」たまごボーロを咀嚼しながら、愉快そうにマツヨイは訊く。「あんたも人間だってのに」

幼児向けのたまごボーロは小さな袋にほんの少量しか入っていないため、大人の俺がむしゃむしゃ食べればあっというまになくなる。マツヨイなんぞに分けてやったらそれこそ一瞬だ。野菜や魚をはじめ、菓子などの加工品も、人間が食べられるものはそれなりにこちらの世界にも存在するが、たまごボーロに関してはあちらの世界から横流れしてきた、すなわちマツヨイのような闇商人がかっぱらってきたものを購入する他に手段がない。そろそろまた大金はたいてパシらせねぇとな、と、組んだ脚の先で脱げかかっているサンダルをぷらぷら揺らしながら考えている。人間のいる世界になど、俺はもう、戻りたくないから。

「俺、親父いねぇんだよな」

「あん? それがどうした」

「おふくろからはさ、よく言われたよ。あんたを生んだからあたしはあの人に捨てられたんだって。あんたなんか生まなきゃよかったって。それで、しょっちゅう殴られたし、何回かはマジで殺されかけた。……俺たち人間が怪談だの都市伝説だのっておまえら怪異をアホみたいに大量に生みだしてさ、そのあと除霊とかいって強制的に成仏させるって、結局やってること同じだよな」

殺しだよ。言いながら、空になったたまごボーロの袋を丁寧に畳んで結び、窓を開けて外へ捨てる。こんなゴミ一つでも金になる六番街では、こうしてやるのがむしろ街のためだ。そもそもあちらの世界にいるときから、こんなことをしても俺を咎めてくれる人はいなかった。罪悪感など微塵もない。

「復讐のつもりかい」

「ああ」

「なら、あんたはもう人間じゃねぇな。立派に俺たちのお仲間だ」

カッカとまたマツヨイは歯を見せて笑ったが、俺は鼻から小さく息を漏らしただけで、上手く笑えなかった。

本当にお仲間になれているのだとしたら、こんな商売、もうとっくにやめているはずだ。マツヨイのようにときどき娯楽として人間をおちょくることはあっても、「うやめしや」なんて言葉を吐くようなやつにわざわざ味方して、人間の世界へ送りこむなんて真似は、絶対に。

恨めしい感情なんて持ったところで、その先に新たな怨嗟以外のなにもないことは、子供の頃から嫌というほど思い知らされてきた。自分を生んだ人間のことなどどうでもよくて、ただここで、毎日楽しく暮らしている。それができてこそ、本当の意味での怪異だと思う。

「俺は、ただのはぐれだ」

「違いねぇ」

単に「ハグレ」という自分の名を口にしたのだと、マツヨイは思っているらしかった。

けれど実際はどうだったろう。

本当の名を捨てたのに。ここで新たな名を得たはずなのに。人間とそうでない者の狭間で、俺の魂はまだ、在るべき場所からはぐれたまま、独り当てもなくさまよっているのかもしれない。

★夢かうつつかシリーズ
掌編小説019(お題:サイコロの物忘れ)
掌編小説035(お題:片足だけのサンダル)
掌編小説047(お題:全力逆上がり)
掌編小説054(お題:両手いっぱいのエサ)
掌編小説150(お題:第2ボタン収穫祭)
掌編小説157(お題:3番目の引き出しに入れておきたいもの)
掌編小説158(お題:良い・酔い・宵)

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