掌編小説054(お題:両手いっぱいのエサ)
「対価は勝手にモらッテいくサ」
宵闇の迫る世界の片隅。笠を目深にかぶった着物姿の老人がしわがれた声で一言つぶやくと、少女の全身からなにか煙のような白いもやがしゅるしゅると出てきて、それは彼のくわえたキセルの中へと吸いこまれていく。あっというまの出来事だった。
ぽかんとしている少女を、老人――ウタカタは枝のような枯れた手でぱっぱと払う。我にかえった少女はボロボロのクマのぬいぐるみを抱きしめて「さよなら」と逃げるように走り去っていった。やがてその足音がすっかり聞こえなくなると、やれやれ、ようやく店じまいだ。
荷を詰めた風呂敷をしょって小道を歩けば、角をひとつふたつまがり、その先はもういつのまにかウタカタたちが暮らす世界である。あちらの世界でいうところの「縁日」のようなにぎわいを見せる通りを抜け、飲み屋が軒を連ねる横丁を過ぎ、提灯の灯りを避けるように暗がりを進めば、あたりはしだいに静かになってその一角にウタカタの家はあった。
荷を下ろし、蝋燭に火を灯すと、ウタカタは一息つくまもなく奥のふすまをそろりと開ける。
「帰ッたゾ」
四畳ばかりの小さな部屋。その一角に鮮明な赤が血しぶきのように広がり、風もないのに揺らめいている。しかしそれはよくよく見れば彼岸花の群集で、そして、このウタカタの妻なのであった。
彼岸病。あるとき突如彼岸花に姿を変えた妻の容態を、町の医師はウタカタにそう説明した。人ならざる者が暮らすこの世界でとて滅多に見られない奇病だという。姿こそ花だが、その生命活動に必要なのは日光や水ではなく、特別愛しい記憶。あるいは人間ならばそれを「思い出」というだろう。容易に準備できるものではない。患者の家族はたいていの場合自らそれを差しだして命を絶やさんとするのだが、皆、三日もあれば患者とともに息絶えるそうだ。愛しい記憶とは己の存在意義であり人生の希望。当然といえば当然であろう。今のところ特効薬はない。なので医師は、彼岸病の患者の家族には花を手折るよう――つまり、安楽死させることを勧めている。しかしウタカタは医師の話を一字一句しかと聞いたうえで、それでも妻を延命させる道を選んだ。
ウタカタは揺らめく妻のそばにあぐらをかき、着物の袖口から例のキセルを取りだす。それをくわえて肺がいっぱいになるまでうんと吸うと、今度は口をすぼめて、ふぅぅぅ、と吐きだしてみせた。両手を差しだすと、煙のような白いもやがそこにわらわらと集まってくる。妻が彼岸病を患うそのときまでウタカタは彼女と骨董店を営んで生計を立てていた。今では、これが二人にとっての稼ぎだ。
「ソら、遠慮せずキちんト吸いナ」
ためらうように小さく揺れる妻に、ウタカタはやわらかな声でささやきかける。彼岸花に目はない。しかしそれはたしかにウタカタを見つめていて、やがて、両手にあった白いもやはしゅるしゅると彼女の中へ消えていった。ウタカタは花のひとつを指先でツンとつつき、そして、いつものようにこんなふうに語りかける。
「俺ガ死ぬときはよォ、どウか俺の記憶ヲ、ウんと吸いナ。あンたと過ごシてきた月日の美味イ記憶ガたンと吸えるだろウ。そうシてあンたはこの世デいっとうキれいナ花になるのサ。そうシたらともに逝こウ。きっとむこうにャ、ここらじャ咲かねェ花やキっと見たこともねェ花ガたくさんある。それヲ、なァ、二人で見テまわりてェなァ」
ウタカタは笑い、妻は揺れた。二人のそれは、まるで幼子がとっときの秘密を共有するようであった。
***
宵闇の迫る世界の片隅。人はあるとき、そこに不思議な露店を見かけることがあるという。
笠を目深にかぶった店主の顔はうかがうことができない。しかし怪しげな店にならぶ品々は、どういうわけか心をつかんではなさない。気づけば客は、そこから一つを選んでこう告げている。
「ください」
金を払う必要はない。大切なそれを譲り受けるためにたったひとつ必要なもの。それは、心の奥にねむる愛しい記憶。
「対価は勝手にモらッテいくサ」
さァ、どンなモノでもいい。おまえノ持っテいる「思い出」といウ愛シい記憶ヲ、俺タチにおくれ。