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掌編小説032(お題:押入れの宇宙)
子供の頃、僕は宇宙人だった。
きっかけは、入学式のあとにクラスでやった最初の自己紹介。名前の順に一人ずつみんなの前に立たされ、名前と、好きなものやことを言っていく。たったそれだけ。たったそれだけのことが僕にはできなかった。
真冬の早朝みたいな重たい静寂。無数の目。ようやく先生が訝しげに僕に声をかけ、刹那、波紋のようにひろがっていくざわめき。めまいがする。かろうじて出たのは「あ」だか「う」だかという心もとない声。誰かが笑っている。僕だって笑いたかった。だけど涙ばかりこぼれてくる。どうして。頭の中で自分の声が聞こえる。どうしてみんなにできることがぼくにはできないんだろう。強く、強く目を閉じる。誰かが言った。
「アーとかウーしかしゃべれないの? ウチュウジンじゃん!」
それで、僕は宇宙人になった。
人前にさえ出されなければ地球人の真似ができたから、ときどきは嘲笑されたり奇異な目で見られたけれど、それでも最初の何年かは普通に通学していた。いつから学校に行かなくなったんだっけ。家庭訪問のあと母が「どうして普通にできないの?」と訊いてきたときだったかもしれない。
訊きたいのは僕のほうだった。どうしてぼくはふつうにできないの? 頭の中でその声がグワングワン鳴り響くと、僕は押入れに閉じこもって耳をふさぎ、声が聞こえなくなるのをひたすら待った。何度もそれをくりかえしているうち、やがて僕は学校に行くのをやめ、そのまま押入れに引きこもるようになった。
ノートパソコンを与えてくれたのは父だ。「新しいのに買い換えたから、古いものはおまえが使ってみないか」父はふすま越しに話しかけてきた。インターネットで好きなことを調べるのもいい。メールで欲しいものや食べたいものを伝えてくれてもいい。魅力的な提案だった。機械に疎い母も加わって、日曜日の午後、リビングで、父によるパソコン講座が開かれた。
初めてインターネットで調べたのは宇宙について。初めて送ったメールは父と母にそれぞれ「ごめんなさい」。初めて受信したメールは父からの「いいよ」。次いで、母からの「だいすき」。
僕は押入れにノートパソコンを運びこんで、そこを「基地」と呼ぶことにした。
いつかふたたび地球に降り立つためのミッションのはじまりだった。
***
グラスの中で小さくなった氷が、カラン、と小気味いい音をたてる。意識は急速に現実へ帰ってきた。久しぶりに口にした酒にどうも酔っているようだ。ウエイターを呼び、水を一杯もらう。
「久しぶりの地球はどうだ?」
あの日ふすまのむこうから聞こえたのと同じ声が、静かに、そして優しく鼓膜に触れる。
一週間前、僕は例によって宇宙人だった。
ただし、今度は子供の比喩じゃない。みんなにできることができなかった僕は、代わりに、みんなにできないことをやってきた。半年間。宇宙の片隅で。かつてふたたび地上に降り立ったこの足は今、三度、地球の上に立っている。
宇宙飛行士として、もちろんたくさんの経験や発見はあった。だけど僕が宇宙で学んだもっとも重要なことは結局、宇宙から見れば誰だって宇宙人だという、あたりまえでつまらないごく小さなことだ――。
「悪くないね。酒も美味いし、父さんや母さんもいる」
銀河のように渦巻く感情と言葉を水でそっと飲みこみながら、僕は、ようやくそれだけを言った。
「そうか」残りのウイスキーをあおって父は静かに笑っている。「それじゃあ、その母さんを担いで帰ろうか。慣れない酒を飲んだり久しぶりに息子と会ったりで、笑って泣いて、今日はずいぶんはしゃぎ疲れたみたいだからな」
勘定を済ませ、なにやらむにゃむにゃ言っている母を父と一緒に左右から担いで外に出た。ねむりかけの母はずっしりと重たい。無重力だったらよかったのに。僕が言うと、父はこのあいだまで僕がいたあの遥か遠くの空にむかって大声で笑った。