「健康の社会的決定要因」への違和感
修士論文のテーマとして、「健康の社会的決定要因」を選んだし、実際に「健康の社会的決定要因」という概念は非常に重要だと思う。
しかし、ずっとぬぐえない違和感があった。
健康主義:「満たされた死」の決定要因は射程範囲か?
一つ目に、そして最も大事な違和感は、
「健康」ということがアウトカムとして設定されていることである。
結果的に、元気で、介護が必要なく、認知症ではない、ということがいつのまにか目的となっている。もちろん、それ自体は素晴らしいことなのだが、では認知症でも幸せに生活できる社会は?介護が必要で寝たきりでも充実して生活できるためには?といったことがどこまで「健康の社会的決定要因」に含まれているのだろう。
例えば、
「満たされた死」のための「社会的決定要因」ということは、「健康の社会的決定要因」の枠組みの中でとらえることができるのだろうか。
いわゆる「健康の社会的決定要因」、例えば貧困によって病気となったひとが、その中においてもなおできるかぎり幸せに生きるために必要なことは、「健康の社会的決定要因」の射程圏内だろうか。
結論を言えば、従来の「健康の社会的決定要因」の議論では取り落とされていることがおおいが、「健康の社会的決定要因」の概念の延長でとらえることができると、僕は考えている。
これは、この「健康」というと「肉体的/生物学的」な狭義の健康が想像されやすいが、WHOの定義と同様に「精神的」「社会的」「スピリチュアル」な側面も健康という概念に含まれている。
仮説や印象論にすぎないが、いわゆる狭義の健康をターゲットにした場合、「健康の社会的決定要因」に関する活動は、啓蒙的な形をとりやすいのではないだろうか。
高齢化社会だからこそ、「広義の健康の社会的決定要因」へ着目を。
また別の観点として、政策立案に「健康の社会的決定要因」を利用するときに、子供や現役世代に対する取組としては狭義の「健康」や従来の「健康の社会的決定要因」という考え方でよいと考えるが、高齢者を対象とした政策(そしてみんながやがて高齢者になることは踏まえつつ)では、特に広義での健康を考えていく必要がある。
高齢化が進む日本でこそ、コンパッション都市、のように、広い意味でwell-beingのような概念も含むような「健康」への「決定要因」を意識していく必要があるし、「健康の社会的決定要因」という学問概念が社会に貢献できると考えている。
注目される「要因」の偏り・マクロでの実践の乏しさ
ほかにも、特に日本での「健康の社会的決定要因」の触れられ方への違和感がある。
それはは、ミクロ~メゾでの活用にとどまり、マクロでの実践についての議論が限定的であることだ。また「健康の社会的決定要因」の中でも、着目される要因に大きな偏りがある。代表的なマクロな施策としては、都市計画(まちづくり)が主に介護予防や生活習慣病予防のような文脈で行われている。しかし、労働政策や貧困問題についての「マクロな施策」の提言やそのための政治的な活動と、学術界とのリンクはあまりみえない。「健康の社会的決定要因」という議論では必ず「solid fact:確かな事実」としてWHOの委員会の文書が引用されるのにも関わらず、その中の「孤独孤立」などにばかり注力して、「労働」「貧困」への取組は乏しいか、またはミクロ/メゾレベルの取組に留まっている。貧困などの問題は、ミクロレベルでは生活困窮者への福祉の紹介などであったり、メゾレベルではこども食堂に取り組む医療機関であったり、取り組まれているのは事実だし、その活動自体は賛同し尊敬しているが、マクロレベルの公共政策/経済/財政を含め学問的にも複雑で政治的な対立を生むような部分への働きかけは不十分な印象を受けている(これは僕の個人的な印象にすぎないかもしれない)
僕個人は、救急医という立場から上流へのアプローチを志向して、「健康の社会的決定要因」に興味をもったため、なにか物足りなさや不完全さを感じている。
平等主義への過度な依存
最後にいうならば、「健康の社会的決定要因」に着目した介入、ヘルスアドボケイトとしての活動などの根底にある正義観/公共哲学観が、平等主義に偏りがちであることだ。
たしかに平等主義はひとつの一定の説得力のある正義ではある。また「健康の社会的決定要因」と平等主義はたしかに相性がよい。しかし、なにが正義か、どのような社会を目指すべきかには様々な考えがあり、そのようないろいろな考えの人々を巻き込んで社会で実践していくことが、実をとり力のあるヘルスアドボケイトのためには必要なはずだ。考えようによっては、つながりや助け合いを強調すれば共同体主義との相性もよいはずであるし、公共政策による上流からのアプローチやポピュレーションアプローチを掲げれば経済的な面に限らずとも「みんながより健康を維持できる」という点からは功利主義的価値観をもつひとも説得できるはずだ。他のPriorityを持つひとにどのように関わるかを意識するためには、やはりマクロの視点が必要で、社会的弱者に現場でよりそうミクロ/メゾだけではなく、社会構成員を広く視野にいれるマクロ/政策の世界との行ったり来たりが重要なのだと考えている。