見出し画像

健康の社会的決定要因のエビデンス-ポリシーギャップを埋めるチャンスは、住民レベルから新しい「政治の回路」を作ることから得られるのでは?

健康の社会的決定要因のエビデンス-ポリシーギャップこそ課題

「健康の社会的決定要因を重視した臨床/政策」は、僕自身が公衆衛生や公共政策に興味をもったきっかけになったテーマだ。

しかし、健康の社会的決定要因は重要な概念で学問的には面白い領域でまだまだ研究の余地のある分野だが、そのような因子と健康の関係についての研究はある程度すでに光が当たっている領域なのではないか?と思う。つまりリサーチギャップはもちろんまだまだ存在するが、研究することで「健康の社会的決定要因」という内容自体がしっかり充実して堅固になっていく、という段階である。

むしろ問題は、evidence-policy-gapである。つまり、健康の社会的決定要因という切り口によって得られた知見が政策レベルへ十分に反映されないこと。
すでにされているのでは?という指摘もありうるが、基本的には介護や健康寿命など狭い範囲での実装にとどまっており、
Wider determinants of health:広い意味での社会的決定要因/構造的決定要因にはアプローチできていない。依然として労働政策は財界の意向などによって決定されるし、医療政策は医師会など限られたステークホルダーの綱引きで決定される。つまり、健康アウトカムを意識した労働政策とはなっていないし、住むだけで幸福になりwell-beingな都市計画は、研究分野レベルではきくが、全国的に実装される段階には程遠い。医系技官や看護系技官が、経済政策の健康影響評価に関わるような形で省庁横断的に政策に関わっていることはあまり聞かない(あったとしてもhealth protection的な文脈で、狭い意味での健康である)
もし実装されているというのであれば、それぞれの都道府県知事や日本政府/首相が「国民のwell-beingの向上のために」働いているか?と自問自答してほしい。 

SDHのエビデンス-ポリシーギャップは、学問的問いではなく、実践における問い

このギャップを埋めるためのヒントを得るために公共政策、公衆衛生を学んできたが、「どのようにすればSDHを意識した公共政策が実施されるか?」という問いは、結局のところ学問的な問いというよりも、実践における問いであると考えるようになった。
つまり、学問的には「ある特定の価値判断基準が政治的に採用されるにはどのような社会における過程を経るか」とか「SDHという概念は、そのどの段階にあって、どの程度社会的に膾炙しているか」とか疑問を定式化できるかもしれないが、それは主に政治学や社会学の領域であって、トピックも健康の社会的決定要因に限定されるものではない。つまり「気候変動対策は、どのように政策として実装されるか」という問いとなにも変わらない。 

しかし、僕は別にこの構造を解き明かしたいのではない(それはそれで学問的に面白いが、そのような内容はすでに政治学で十分に検討されているだろう)
SDHがどのようにすれば政策レベルで実装されるのかを知り、実際に実装するために動きたい。
これが「学問的な問いというよりも、実践における問い」という意味だ

政治的構造から考える

日本での政治や意思決定の構造から考えれば、
国政も地方も、世襲や支援団体の関係によって固定化し、政治自体も固定化して、アプローチできる回路も内容も狭く限定的になり、一般の住民や生活と政治の間の回路がみえなくなっていることが障壁だと考えている。
与党が固定化した結果、法的に規定されて管理されている官僚組織だけではなく、「自民党」という特定の政党の内部構造があるのが前提で物事が動いているようにも見える。党内での法案調整が事実上の関係者間の意見調整になっていることや党内派閥争いが事実上の政権交代になっていることなど…しかもこれは本来官僚的組織が受けるべき制限も受けない。
(※この点は、政治学者である飯尾潤先生による「日本の統治構造」を読んでほしい。また元官僚である山埼史郎氏による「人口戦略法案」を読むと、いかに官僚が自民党の内部構造を前提にして動いているかが理解できる。これは、実務者としての官僚がどうあるべきか、という問題提起ではなく、現実としてどのように考えて動いているかという話である)
高度成長~バブル前までの社会構造であれば、この構造で一定程度国民全体に価値や利益を代表し調整できたかもしれないが、国際化/多様化/流動化した現在において、正当性を失っている。
が、長期化の結果、「この構造ありき」となっているため、一部の価値観や利益が代表される形となってしまっている。 

既存の構造を内面化し、維持に(意図せず)寄与する医師のSNS発信

また、長期与党である自民党の存在が恒常的な組織として国民側も内面化している面もありそうに感じる。
例えば、医師などでも「〇与党議員が〜を実現してくれました」「〇議員へ提言しにいきました」というSNS発信などをみかけるが、それは事実上それを実現し得る立場にいる政治家が自民与党に固定化しているからで、
既存の政治的枠組の中で許されることしか実現されていないかもしれないことはもっと自覚されるべきである。
政治的発信はしないとし実際に直接的な政治発言や思想は発信していない医師でも、「○○の政策はA議員が実施した」と書き込むことは時折みかける。
そういう発信は、個別の政策実現としては大切なことかもしれないが、既存の政治の枠組の固定化に寄与している。
これはなにも与党自民党に限ったことではなく、既存政党の在り方を踏襲するような野党各党にも同様のことがいえるかもしれない。(もし野党によって政権交代されれば固定化された構造ではない分、その時点一点においては現状よりも多様な政治回路が発生するかもしれないが。一方で、既存の政治の在り方は保存されたまま、支持利益団体や支持価値集団が異なるだけであれば、別の固定化された回路が形成されるだけで、本質的ではない) 

結局どの政党のイデオロギーが…ということは重要ではなく、固定化した政治構造を前提にして活動する限り、誰も興味を持たない小さな政策実現や、その政治的構造の中で「お許しいただけた」程度のことになり、本当の意味で健康やウェルビーイングのための政策を実現するのは難しいのでは?と考えている。

住民レベルから新しい回路を作る:それにチャンスがあるのでは?

そのため、健康の社会的決定要因の視点を政策に反映するためには、「政策回路が固定化した結果、一般の住民や生活と政治の間の回路がみえなくなっていること」が課題であり「本来あるべき回路を再構築すること」で、健康や幸福やwellbeingのような比較的普遍的な価値が政策のアウトカムとして設定されることが必要である
(※この点、論理が飛躍している。東浩紀氏や小熊英二氏の著作などを中心に複数の本の影響を受けている。ここでは詳細には立ち入らない)
このような政治的構造の根本的な対策をしなければ、健康やウェルビーイング/幸せのための政策なんて、小さな「既存の政治権力にお許しいただけた範囲」のこと以外、実現できない
結局、健康の社会的決定要因SDHを考慮したHealth in All policyを実装するにも、住むだけで健康/ウェルビーイングでいられる都市を作るにも、強固な社会関係資本を構築するにも、既存の政策回路にかわる、「健全な社会参加・民主的な自治と中間組織・参加しつながり合う住民」が全てのベースになる。
これは人によっては対話民主主義というかもしれないし、熟議民主主義でも、「居場所」でも、コミュニティでも、コモンズでも、市民性でも、エンパワメントでも、用語はなんでもいい。
遠回りかもしれないけれど、そのような住民レベルからもう一度回路を一つずつ組み上げていく作業が必要だろう。
そうすると既存の政治構造すら維持できず崩壊しつつある地方こそ望みがあるのかな、と思っている。 

繰り返すが、健康の社会的決定要因を政策に反映させるためには、政策回路の健全化が必要で、そのためには住民レベルからの社会参加の維持・再構築が重要となる。
すでに、地域にでて、健康の社会的決定要因、特に社会的処方や孤立孤独、ソーシャルキャピタルなどに取り組んでいた人は新しいことをする必要はない。意識の持ち方、重心の取り方を変えるだけでよい。
健康、SDH、ウェルビーイング、死をテーマ/内容としつつ、それを通じて地域での民主的で主体的な参加の場、一種の個人と政府の間にある場を作って、それがまた健康やウェルビーイングにつながっていく…という形を意識すること。ミクロ~メゾでの「つながり」に終始せず、それがマクロな流れを生み出すための起点であると意識すること。
一見、遠回りで地味な活動にみえるが、これは上で見てきたような理由できちんと「政治」であり「行政」であり「公衆衛生」に該当する活動だ。厚生労働省や保健所だけがPublicHealthではないし、行政官や政治家だけが公共政策/政治ではない。ビジネスも流行りの選択肢だけど、稼げる/測定できることだけが大切なわけでもない。案外地味だけど残されている分野がある。
健康やウェルビーイングや死はあくまでテーマで、それは読書でも園芸でもなんでもよくて、それで健全な民主主義を再建できることが大事。そういう活動が、ソーシャルキャピタルやつながりにとどまらず、政治や行政そのものにつながり、健康の社会的決定要因を重視した政策の実現につながるのでは?と思っている


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?