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機転じて本願出ず

欧米文化においてはだいたいにおいて、見えるものは見えるもので、見えないものは見えないものだ、とするところが根本にあると思う。この態度が、あらゆる対立することの中に現れている。見えるものはことごとく見えるものの世界、自分たちが行くことができ、手で触れることのできる処であり、見えないものは、知ることももちろん行こうとすることもできないもの。目に見える限りは此方の世界に属していて、到達可能なものということ。天使さえもこの世のものだ。
数光年先にあるものでも目に見えれば、行くことができると考えることができるけれど、目にも見えない感じることもできないものまでは、あたりまえに手の出しようがない。
一方こちらは、見えないものを見えるものの中に考慮しているところがある。というのも、見えないことが見えることだと言えてしまうからで、見えないこと即ち見えること、これ真なりと考えることができる傾向にあって、到達しないことこれ到達すること、という様に矛盾したことが一直線で繋がる、もしくは転じるところがある。欧米では言葉尻だけ取ってもこれはあたりまえに意味を成さない。こちら側はそのように、見える世界に見えないことを現す傾向にあり、欧米は見える世界に限り現す傾向にあると思う。

僕は、見えないものを見えないとすることのできる文化をいつもすごいなと思っていて、そこに逆に、見えないものの実態を見ることができる。向こうはこちらの、見えないものの真を現す文化に感嘆する人が多くある感じがする。

あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。

ヨハネ20:29

見えないものは信じるしかない、見えてしまっているものは信じることはもうできない。信仰のない所、そこには愛も希望もない。という根拠から、'見えない' という立脚点を持つことができる。これが、思考するものは見えるものだけに限る、ということを体に長年にわたり染み付かせているところがあると思う。

先の引用は、下記のこういう件からの文脈で

ほかの弟子たちは彼に「私たちは復活した主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。

とあって、実際見たり触ったりしたいという気持ちは存分にあり、その後に、

トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

とあり、こちらの真を現す文化に触れて、自分たちの信を呼び覚ましたいという思いが根本にある様に思う。
こちら側から向こうに求めるものも大いに理由が考察されるけれど、長くなるので一旦終わりたいと思います。

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