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見ることを排斥した物の上に立つ現代 -見る弱さ、見ない強さ
結局は、見えていない物、見ることを排除した物をつくることはできない。
見えないということを見たということもまた、見えないということをそこに見ているから、見ている物になる。見ている物は弱い。
しかしながら、何かを見た物であったとしてもそれは、離れてみれば、何も見えてないのと同然の、そのとき感じ考えただけにすぎない、全ては見たものを排斥された物、喋ることのできない見たり聞いたりしたことの排斥されたただの物にすぎない。
教会の純朴な信徒のように、天界については見ることを欲しない。後は後、今は今と考えて、後のことは今考えてもわからない、信じて任せましょうと言う不確信で時間の中に生きている純朴な信徒のように、私たちのやることは畢竟こちら側の事、見えてない物、喋らない物、聞かない物と成るのではないでしょうか。そのような平信徒と対をなして、彼ら見たり話したり聞いたりしない物たちによって、見たり聞いたり話したりする者が、真に見えない形で現れている。
この者は、物と対をなすもので、二つに分かれて考えられているもの。そしてその二つが一体となったものが作品と呼び得ると思うのだけど、この一体は別々に見れば、見ない話さない聞かないただの物と、その逆の者で成っている。つまりこれで、物、者、作品、と三つに分けて考えれるわけです。物は物でなくちゃいけない理由がここにあると思うわけです。これが分をわきまえた謙虚だと思います、物に何かを見ることを排斥することを願う理由です。侏儒の祈りです。
これを西欧文化でいうと、物がキリスト、者が精霊、そしてそれらの出どころを余すことなく指し示している作品は、父なる神、何かを見た物であったとしてもそれは、離れてみれば何も見えてないのと同然の、そのとき感じ考えただけにすぎないのと同じ、形のない、確かに在りながら同時に今まで一度も無い智慧にあたる。
従順であるためにはっきりとこのように分けて考えられてきた西欧文化は、ただの人がただの人で天界には属していないという謙虚さを持ち、見えない形で指し示すことはできるけれど、実際自分たちの現し得る形の中に見たりはできないという姿勢が板について、自分たちのつくる物に対しての姿勢に、顕著に傾向とその特長が出ているように思うのです。
ところで、いったいどうしたらこの三位や三昧がその型を顕にするのでしょうか。何がこれに適うのでしょうか。
それは現在では、不安であり問いであり分かれたものだと思います。それらはしゃべれないし聞けないし見えないからです。何か見えることではなく見えないことだと思います。大きな悲がそこにあるかどうかだと思います。
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