子どもを持つことへの"想い"は障害の有無に依らない、と思う。(2024年9月追記)
※この記事は2022年4月に書いたものを加筆・修正したものです。
はじめに
旧優生保護法をめぐる最高裁判決が出て2か月になる。
障害があることを理由に、ひとの身体、その中でも特に根源的な「性」に侵襲したことは決して許されることではない。考え方そのものが誤っていたことを国はきちんと認めて、国民に示してほしい……そう思っていたのがようやく長い道のスタートラインに立った。
この法律が廃止になったのは平成8年。つまり私が生まれた後のことであり、私にとっては決して「過去のこと」でも「他人事」でもない。
さて、ちょうど同じ時期(註:2022年)に、精神疾患を抱える女性の出産を支援するプロジェクト広告をFacebookで読んだ。女性の場合、妊娠・出産時に向精神薬を服用することは胎児・乳児に影響があることが指摘されている。そのような状況でも、子どもを産み育てることができるように制度やサービスを充実させようというのがプロジェクトの目的だった。
しかし、そこへのコメントは、――想像通りなのだが――酷いものだった。支持する意見ももちろんあったが、当たり前のように「慎重になれ」「子どものことを考えろ」という意見が出てくる。
こういった意見が出てくるのは、理解「は」できる(実際に表明するかは別だが)。私は怒りも当然感じるのだが、それ以上に違和感のほうが大きい。
私の違和感について言語化してみたいと思う。
心理学の視点、社会福祉学の視点
以前、心理学の本を読んだときに、「心理学は自然科学であり、冷たい感じがする」と書いた。心理学の立場の人は気を悪くしたかもしれないが、それをもっとも強く感じたのは「児童虐待」に関する部分を読んだからだった。
親に精神疾患があることは、児童虐待のリスクのひとつとされている。これ自体は私も理解できるのだが、心理学ではそれを「動かせないエビデンス」として捉え、解決策として「子どもに愛着(アタッチメント)が育つように支援しましょう」と言って、そこで話が終わってしまう。私はどうしてもそれを「冷たい」と感じてしまうのだ。別に心理学が悪いわけではない。それ以上のことは心理学の範疇を超えてしまう、それだけのことだ。
私は社会福祉学の立場である以上、精神疾患がリスクであることを認めたうえで、それでも子どもを産み育てることができるよう、制度やサービスを整えてほしい、そして、エビデンスそのものをひっくり返せるような社会になってほしい、と思う。
登場人物が少なすぎないか?
さて、旧優生保護法が話題になることと並行して、障害のある方の子育てがメディアで取り上げられることも増えてきた。
それ自体はいいことだと思う。けれどそこに登場するのは、当事者である母親と子ども、支援者(ほぼ女性である)がほとんどであり、そこに加わるのもせいぜい当事者の母親だけ、という場合が多い。当事者である(はずの)父親が出てこないことも珍しくない。これだけ世の中で「男性の育児参加」が叫ばれているのに、である。
私は男性であり実際に妊娠や出産する立場にはなれないけれど、人並みに子どもがいたらそれはそれで幸せだろうなと思うし、一方で病気や障害と関連して躊躇したり不安に思う気持ちもある。
けれど、もしパートナーがいて子どもを望んだとしたら、何が必要になるだろうか?
いろいろあるけれど、一つは、「話し合い」だと思う。
"想い"は変わらない
話を戻そう。なぜ私は「慎重になれ」「子どものことを考えろ」という意見に違和感を覚えたのだろうか。それは、それらの発言が「精神疾患のある人は周りの判断をせずに、権利ばかり主張している」と考えているように思えてならないからである。もちろん、子どもを産み育てることは責任を伴うことだし、そのために必要なことはたくさんある。
けれど、彼ら(私たち)は権利ばかり主張しているのだろうか?
私はそうは思わない。当事者はさまざまな条件を考えたうえで日々選択をして生きている。
子どもを持つことで言えば、自身の体調や薬の影響、受けられる医療や福祉の制度やサービス、経済状況、周りの人からの支援、パートナーや親世代の想い、生まれてくる子どもへの影響(遺伝やスティグマ、虐待のリスクも含めて)、そして何より本人の希望。
そういったものを全部ひっくるめたうえで、それでも「子どもを持ちたい」のである。そして、――ここが重要だと思うし、見過ごされがちだとも思うのだけれど――そのうえで子どもを持つことを諦めた人もたくさんいるはずなのである。
多くのことを考慮して、それでも「子どもを持ちたい」と思うのならば、それは最大限尊重するのが道理ではないだろうか。そして、そのために支援が必要だという話をしているのに、そこで「慎重になれ」「子どものことを考えろ」と言うひとには、「あなた日本語理解していますか?」と言いたくなるのである。
障害や病気がなくても、子どもを持つかどうかはとてもデリケートな問題であり、一当事者であるからと言って安易に発言できるとは思っていない。
けれど、子どもを持つという"想い"は――結果として選択や行動は違ってくるとしても――障害の有無に依らないのではないか、と思うし、"想い"を否定する権利を誰が持っているのだろう。もちろんなかには無計画な妊娠や出産もあるだろうけれど、それとて障害者も健常者も変わらない。
おわりに
それでも、病気や障害を理由に子どもを持つことに反対するひとは出てくるだろう。けれど、その理由の背景に差別や偏見があれば、それらを再生産してしまうし、優生思想を消極的にでも支持していると言えるかもしれない。また、「病気や障害のない自分は、子どもを持つことに疑問を持たなくてよい」と無意識のうちに思っているとしたら、それはとてもグロテスクなことだと思う。
病気や障害があっても――あるからこそと言うべきかもしれない――私たちはさまざまな選択をしているし、それだけの力を持っている。それを知ってほしいし、旧優生保護法のように他人が選択肢そのものを取り上げることはこれ以上あってはならない。
もう一度言う。エビデンスそのものをひっくり返せるような社会になってほしい。
追記
当時は気づかなかったのだけれど、これを書いたころの私は、「(ときとして煩わしい)人生に向き合っていない」と思われることがとても悔しかったのかもしれない。
幸せのかたちはたくさんあるし、それを実現するハードルもそれぞれだろうけれど、誰かが「現実は厳しいかもしれないけれど、あなたはそういうかたちで幸せになりたいんだね」と言ってくれたら救われるひとも多いのではないかと思う。これも障害の有無に依らず。