野蛮化するフェミニズムとその正体

自称フェミニストが「こんな表現を許すな!」「卑猥な漫画を一掃しろ!」と騒ぐあれ。
あるいはポリティカル・コレクトネスを旗印に「ドラマには白人ばかりではなく黒人、東洋人、その他の人種をバランスよく登場させろ!」「主要人物に身体障害者も入れなければ政治的に正しくない!」と騒ぐあれ。
そう思う人や感じる人が一部存在すること自体はまあわからなくはないのだけれど、その声があまりにも高まり過ぎて制作者やコンテンツ業界が影響を受けざるを得ないほどの「圧力」にまでなってしまった現状を見ていると、なんだかなぁと思う。
そしてなんだかなぁと思いながら、この現象の根本的な原因は一体なんなのだろうと考えてみた。

社会のアレルギー反応?

あくまでこれは私的な見解なのだが、これはある種のアレルギー反応なのではないかと思っている。

この社会というものを人体に置き換えて考えてみた場合、過剰な表現規制とか行き過ぎたポリコレ騒ぎなどというのは人体においてアレルギー反応が出ているのと同じ状態なのではないかと思うのだ。

実際のアレルギー反応、例えば花粉症などについて考えてみよう。花粉とはそもそも人体にとって無害な物質らしい。花粉症を発症していない人であれば花粉は体内に入っても粘膜や粘液によってブロックされて炎症反応も起こさずすんなりと体外に排出されて終わってしまうはずのものだ。
けれども現代人の何割かは花粉症を含め様々なアレルギー反応を示すようになっている。この原因はいろいろと考えられているが、その中の一つに現代人の生活環境が非常に衛生的になったからだと考えている人達がいる。
現代人の感覚からすれば非衛生的な環境で暮らしていた昔の人間は常にいろんな病原菌や寄生虫の攻撃に晒されてきた。それらに対抗するために人体には非常に強力な免疫機構が備わっている。
しかし現代人が衛生的な環境で暮らすようになると病原菌や寄生虫に晒される機会が減り、人体の免疫機構は戦う相手がいなくなってしまった。この行き場を失った免疫機構が誤動作を起こすようになる。花粉とか小麦とか乳製品だとか、本来なら無害なはずのものにその攻撃先を見出し働くようになってしまい、それによって現れる炎症反応などがアレルギー症状なのだという。

これと同じようなことが、社会においても起きている。

人間には、あるいは大衆には、悪を断罪しこれを糾弾したいという本能のようなものが備わっている。
すべての人間がそうだというわけではないのだけれど、何かを悪と断罪しとにかくそれを攻撃したいと思う、そういう暗い欲望に駆られる人間が社会の中に一定数以上存在するようになっている。
あくまでこれは私がそう思うというだけの仮説の話だ。科学的に証明された話でもなんでもない。けれども歴史の本なんかを繰っているとどうもそうなのではないかと思えるような場面に何度も出くわしてしまうので、そんなに間違ってもいないんじゃないかと思っている。
比較的時代の近いところで言えばナチスによるホロコーストがそうだろうし、古くは十字軍なんかもそうだろう。
悪と戦い、悪を攻撃し、悪を排除したい。そういう欲求が人間にはある。ただその悪が、異民族だったり異教徒だったり不信心者だったり、時代によっていろいろと変化はするのだろうけれど、それでも社会にとってのというものがいつの時代でもいて、それを攻撃することに血道を上げる人達がいるのも世の常であったようである。
特に大衆とか庶民と言われている人ほどこの本能を備えていることが多い。そして為政者とか指導者とか呼ばれる人達は大衆のこの欲望についてよく知っていて、時にはこれを利用したり扇動したりして政治を自分の望む方向にコントロールする。そういう歴史が繰り返されてきた。

社会の免疫機構

ある意味これは、社会の免疫機構と言えなくも無い。昔であれば、それなりに有効に機能していたのだろう。
家族や親戚が寄り集まっただけの人口数十人の小さな村で暮らしていた石器時代とか、あるいは同じ宗教を信じつつ同じ領主の下で農業に従事してその村から一生出ることなく人生を終える人が多かった中世とか、あるいは文明国以外は野蛮な国でありそんな国に対しては何をしても許されるんだと考えられていた帝国主義の時代とか、そんな時代だったならばこの悪を断罪しこれを糾弾したいという人々の欲求は組織や共同体を維持するのにそれなりに役立っていたのだろう。こういった感情は、敵対する勢力を排除するのに役立ち、集団の和を乱す人間の排除に成功し、集団の結束を高めることに繋がった。そうして組織の生き残りをかけた競争に打ち勝つことに寄与していたのである。
昔はいくらでも「敵」がいた。そこには自分達の生活圏を脅かす異民族や異国人や異教徒や、あるいは別のプロパガンダを信じる敵国の人間が。もしくは魔女やユダヤ人や非国民といった国内の中の異分子が、その辺に転がっていたのである。
「悪を断罪しこれを糾弾したい」という欲望を持った人達は、いくらでもその気持ちをぶつける相手がいたわけだ。

時代の変化

しかし幸か不幸か、時代は変わってしまった。明確な敵を設定するのが難しい時代になってしまった。
大きな戦争が終結し、仮初ではあるかもしれないけれど平和が訪れて、世界のグローバル化が進展し、国を越えた経済の相互依存が強まってくるとそういったを見つけ難い時代になってしまった。移民が増え、外国人観光客が増え、肌の色の違う人、違う宗教を信じる人が一緒に暮らすことになった世界では、それが建前に過ぎないとしても、異文化共生、相互理解、それらが一緒に生きていく上で必須の概念になっていく。
もちろん私はそういった今の異文化共生社会を否定する気は更々ない。けれどもそんな世の中では「悪を断罪しこれを糾弾したい」という気持ちを持て余す人達がでてきてしまうだろうという懸念も抱いてしまうのだ。
そういった人達の気持ちは一体どこに向かったらいいのだろうか? カトリックが多数派の村に住み小数派のプロテスタントの家族を迫害していたような、あるいは自国の勝利を疑う人間を非国民と呼んで槍玉に挙げていたような、そんな人達が時代の変化とともにあっさりと消え去ってしまうことができるものなのだろうか?
私はそれは無理だと思う。今の時代にも、そんな人達が一定数いるのだ。悪を断罪しこれを糾弾したいという欲求を持った人々がまだまだ大衆の中に潜んでいるのだ。

そういった人達の行き着く先が、過剰な表現規制とか行き過ぎたポリコレ騒動なのだと思う。

現代社会の中で、彼らは敵に飢えている。彼らは悪に飢えている。
今の世の中に、異教徒や異国人や敵国のシンパは見つからない。いたとしても、これを表立って叩くことができない。彼らはそんな世の中にうんざりしていた。悪を攻撃したいのに! 何かを袋叩きにしてやっつけたいのに! それができない。そうして彼らの中にイライラが募っていく。そんな時に見つけたのだ。彼らのイライラの捌け口を。彼らの本能をぶつける先を。
漫画の中の少し過激な性表現だとか、あるいはバランスを欠いた(?)ドラマの配役なんかが彼らの新しいターゲットになった。おそらく対象は何でもよかったのだろう。社会にとって害悪になりそうななにか。組織を脅かす悪っぽいなにか。そういう認識が成功して一度レッテルが貼られてしまえば、多分その対象はなんでもよかったのだ。
大して害の無いものでも、それを叩かずにはいられない。自分達の生活を脅かすものでなくても、排除してしまわなければ気がすまない。だってそれは本能だから。それをせずにはいられないものだから。
表現規制を訴えたりポリコレ棒を振り回している時の彼らがどこか嬉々として見えるのは多分間違いではないだろう。それは魔女狩りの快感でありホロコーストの愉悦であり非国民を吊るし上げる時の狂騒なのだ。
彼らはこうしてようやく、自分の拳の下ろす先を見つけることに成功した。

そして現在……

ネット上なんかで、表現規制派と表現規制反対派のやり取りを見かけることがあるけれど、大抵それは盛大に噛み合ってなかったりする。けれどもこういう考えがベースにあれば何故噛み合わないのか理解するのは容易だろう。
彼らはけして世の中を良くしていこうと考えている有識者ではない。進歩的な考えを推し進めようとするリベラリストでもない。ただ己のイライラを何かにぶつけたいだけの輩(やから)なのだ。
ネット上で叫んでいる自称フェミニストだとか、ポリコレ棒をぶん回している人達は「悪を断罪しこれを糾弾したい」という本能を持て余しただけの大衆なのだ。そう認識した方が正確なのではないか。
例えば表現規制反対派が、データを提示しながら表現規制派に反対意見を送っても全然それが通じないのもそのためだ。日本には、二次元創作ポルノが溢れていてこれが問題だと表現規制派は言っているが、海外の二次元ポルノも規制されている国の方が人口当たりのレイプ発生率が格段に高いというデータがある。もしも日本でも二次元ポルノを規制したら、強姦発生率が上がる恐れがあるじゃないか。二次元の女性の人権を守って、実際の女性の被害件数が増えるようなことがあっては本末転倒ではないか。そういう説明がなされても「うるさい」「あんな卑猥なものを擁護する神経がわからない」「私の感覚がわからない奴の方が異常者」と実に感情的な反応しかしないのも、よくわかる話なのだ。

現代社会に吹き荒れている過剰な表現規制とか行き過ぎたポリティカル・コレクトネスだとかの正体は、実はこれではないかと私は思っている。
だから彼らに対して、理路整然とデータをそろえて説明しても、丁寧に心を尽くして説得しても全く無駄なのだと思う。彼らにとってこれは感情の問題だから。持て余した本能のぶつけ先の問題だからである。
表現規制反対派の人だとか、ポリコレ疲れを表明する人達は、まずはこういう認識を持つことが最初に必要なことなのではないだろうか。

さて、この社会現象について、一応私なりの解決策はあるのだが、少し長くなり過ぎてしまったので今日はこのあたりで。

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佐々藤
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