無意味さ
無意味なんだ。そう思う。
しかしその無意味さに無自覚でいることが、生きるコツなんじゃないかと思う。
私は今日も、行くあてもなく電車に乗る。各駅停車の一番端の車両。この人気の少ない車両に乗って、私はため息つきつつシートに座り、電車に揺られ、揺られては止まり、また揺られながら、車窓を流れる景色を眺めるのだった。
無意味なのにな。と思う。意味なんてないのにな。と思う。
向かいのシートに座っているサラリーマン同士がなにやら話を続けている。別のシートにはいかにも自分の服装に金をかけてますという出で立ちの女子大生らしき人が座っている。私はそれを見ていると、なにやら寂しくなってしまうのだ。なにやら虚しくなってしまうのだ。生きることになんの意味もないのにな。それなのにどうしてこの人達は、こうも生きることに積極的なんだろう。他人とコミュニケーションをとることも、自分の見栄えをよくすることも、よりよく生きるための手段だろう。けれどもそれでなんになる。なんの意味に到達する? 神のために生きているというわけでもない。超人となるその途上を歩いているわけでもない。生きる意味を喪失してしまった現代人は、いったいなんのために生きているんだろう。それを明らかにしないまま、それについて考えもしないまま、ただカラカラと回っている。ひっくり返った自転車の、カラカラとよく回る車輪のように、ただそこにあるのだった。地面を蹴って進みもせず、流れに合わせて回るのでもなく、虚しく空転を続けるそれのように、見ている私をやるせない気分にさせてしまうのだった。
ああ、こんなことは、私の気分の問題なのかもしれない。私の心根に問題があるからそんな風に思ってしまうのかもしれない。私は彼らに共感できない。意味もないままそんな生きよう生きようなんて態度は取れはしない。けれどもそこに、共感なんて必要ないのだ。見ていて嫌な気持ちになる必要もないのだ。
例えば蟻の群れを見ている時、私は別に、卵を運びてぇ~とか、獲物に齧り付きてぇ~とか思ったりしない。けれどもそれを続ける蟻達を、見ていて虚しくなるなんてことにはならない。なるほどなぁって思う。蟻はこうやって生きているんだなぁってそう思う。そんな蟻を眺めるような心積もりで、人間を見ていればそれでいいのではないか。ああ、こうやって生きているんだ。人間ってこうやって生きよう生きようとしてるんだなぁって。
私を乗せた電車が止まる。ドアが開き、人を吐き出し吸い込んでいく。私の体はまた揺られる。意味なんてないのにな。