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『つくりたい』より先に『なおしたい』があったでしょ

以前の記事で、『天然石のシンプルなアクセサリーが、巷にあんまりないから作り始めた』ってことを書いた。

その直後から、どうにも違和感で。
なんでかっていうと、ずいぶん雑な表現だから。

はじめから創りたかったんじゃないよね。
じぶんで直したかっただけだよね。

ほんの小さなひとつのパーツが失われることで『道具として機能しなくなる金属と石の集合体の哀れ』を感じたことが、そもそもの初まり。

なんでチェーンが切れちゃったんだろう。
気に入ってたのにショボン。
お直しできるかな。

なんと!
チェーンをつなぐだけで3000円?
しかも、一週間後に受け取り?

そんなことを繰り返し、たどり着いた境地。
じぶんのご機嫌を人任せにするのは、もう御免被りたい。

金を払ってあっさり修理すればいいじゃん。
修理代が高くつくなら、新しいものを買えばいいじゃん。

そう思っていたよ、我。
(今もそうすることは、あるです)

でも、修理を頼んでも、新しいものを買っても、けっきょく私の問題解決スキルはひとつも上がらないじゃないか。

もう、こんなん(人生)いやや!

みたいな強烈な感情が溢れ出たのが、3年くらい前のこと。
今思うと、たいそうなムーブメントであった。

とにかく壊れたものをじぶんで直したい欲動に駆られたのである。直せるじぶんになってみたい欲動というのか。

同じ頃、我は数年使った自転車も同じような欲動により大改造している。乗りにくくて買ってすぐから錆だらけになって、大きくて重くて、なんだか可愛くないやつ。

『もうお前なんかポンコツだ!好きじゃない!ピカピカなやつに取っ替えてやるからな!』と息巻いてみたものの、やっぱりいつもそうやって気に入らないものを無情に斬り捨てるじぶんにも辟易していて。

『骨組みと機能が生きてるなら、棄ててしまわなくていいんじゃないか?』
善良なる大人の我の声が静かに降りてきて、すべて棄て去るという暴挙を思いとどまった。

愛せない理由ととことん向き合って、サドルからカゴからライトから、部品を取り寄せて全部じぶんで取り替えた。

切れたチェーンをじぶんでつなぎ直し、気に入らない自転車を機能的に改造し、我はいっときご機嫌極まりない無敵状態を得た。

誰かを当てにしないって、なんて自由なんだ。
じぶんを当てにするって、なんて満ちるんだ。

そしてその頃から、筋トレ初めたんだった。
じぶんの大改造にも着手したってこと。

けっきょく、デカくて重い自転車を操るニンゲンもポンコツだったことがわかった。
筋トレ三年目の我には、同じ自転車はまったく重く感じない。

こういうのって、箱庭療法あたりでよくある展開。
たとえば箱庭の中に置いた壊れたものをじぶんの手で修理していく過程で、じぶんの実際の人生も連動して直っていくようなことが本当に起こる。
直るというより、然るべき姿、然るべき状態になっていくと言うべきか。

三年前の大改造の果てに、我はなんだかきらきらしたものをひたすらボロボロと生み落とす人になった。

人のせいにして文句ばっかり言うのをやめて、じぶんにちゃんと期待して、じぶんに助けてもらうようになったら、溢れるような幸福に包まれている状態になった。

生きてると、そういうことが起こる。
これだから、まだまだ生きることは棄てたもんじゃない。

(今でもデスモードで呪詛三昧やりたい日もあるけどね…。そういうときは、一瞬で鋭く吠えて鎮火させるよ)

所長タスケ


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