終着点
「え、困るよおれ、そんなの無理だよ」
……は?
何もなかったかのように大ぶりの鴨肉を頬張る彼を思わず凝視した。やっぱりここのローストは上手いなあ、お前も冷めないうちに早く食えよと呑気に薦めてくる。口の端にソースが付いているのを見ると、なんだか虚しくなった。
「だってさ、子供ってめちゃくちゃ金かかるじゃん?」
渡してやったナプキンで口元を拭いながら当たり前のことを説いてくる。
「……うん」
「まだそんなこと考える時期じゃなっていうか、リーダー任されるようになってようやく仕事の方も軌道に乗ってきたばかりなのにあんまりって言うか」
吹き抜けのホールに木の丸テーブルが無造作に並べられた騒がしいイタリアンバルのはずなのに。彼の声はいつもより大きく、鋭く、響く。
グラスの水を見つめていた視線はいつの間にか膝の上の手へ移動していた。彼も私も気に入っている黒いタイトスカート。もう履くことはないのだろうか。少しの音も立てないよう、ゆっくりと指を中に織り込んだ。
「け、結婚しようって……話、は?」
伸ばした爪が痛いほど掌に食い込んでいる。
「そんなの、時期が来たらだよ」
抑揚のない声で彼は言った。
時期が来るって何よ。一体いつになったら来るのよ。込み上げてくる怒りをぶつけてやりたくなったが、馬鹿馬鹿しいので「そうだね」と力なく笑った。
彼を駅まで見送ってから、しばらく線路に沿って歩いた。もわっとした重たい風の中に心地よい冷気が混ざりこんでいる。もう秋か。大きく息を吸い込んでみる。
やっぱり東京の空気は美味しくない。周りが明るすぎるせいか星は一つも見えなかった。
——帰省しようかな。
ふと、そんなフレーズが脳内をよぎった。
いやいやいやいや、ありえないでしょ。
ぶんぶんと首を振る。けれどその想いは消えなかった。
田舎に帰ったらいいことあるだろうか。少なくとも食事代を多く払わされることはなくなるに違いない。
私はようやく立ち止まった。もう線路はなくなっていた。
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