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Compiègne, France.

 パリ~ルーベが延期になった。

 昨春は新型コロナウイルスのパンデミックで自転車ロードレースそのものの国際カレンダーが中断し、日程が4月から10月に変更したが、再流行で結局開催できなかった。他のレースは感染が拡大していても、無理矢理開催したのだが、パリ~ルーベだけはその勢いに乗れなかった。と言うか、フランス北部の地方自治体は、どこよりも慎重なのかもしれない。

 自転車ロードレースの名称は、スタート地とゴール地の場合が多いが、名ばかりのものが結構ある。時代の流れと共に、当初のスタートとゴールではなくなってしまっても、名前だけは残すからだ。パリ~ルーベと言っても、スタートはパリではない。レースが誕生した頃は本当にパリのはずれがスタートだったが、次第に郊外へ移動し、今はパリから80kmほど離れたコンピエーニュ(Compiègne)からスタートする。

 コンピエーニュのスタートに初めて行ったのは、ベルギー取材2年目の1998年だったが、鉄道を乗り継いで行ったのは何年の事だったのか、今一つ覚えていない。当時の資料を確認すればわかるのだが、とりあえずこの記録は頭に残っている事だけでまとめようと思っているので、捜索はまたの機会にする。

 初めて鉄道でコンピエーニュに行った時の忘れられない思い出は、パリ~ルーベの事ではなく、パリから乗った列車がコンパートメント形式だった事だ。オリエント急行のような、ヨーロッパを舞台にした映画やドラマに出てくる、車両の片側が通路で、反対側に6席ずつくらいの個室が並んでいる列車だ。日本ではお目にかかれないコンパートメントに、すごく感動したのを覚えている。

 乗車時間は1時間ほどで、同じ個室に乗り合わせたマダムたちが、どこに行くのかと話しかけてきた。きっと、そのローカル線に日本人が乗っているのは珍しかったのだろう。当時、駅前留学でフランス語を勉強し始めたばかりで、片言でしか話はできなかったが、行き先を告げると、マダムたちはそれがとても素敵な街だと教えてくれた。

 その頃は自転車レース馬鹿すぎて、せっかくベルギーまで行っていたのに観光なんてほとんどしていなくて、ブリュッセルに行って小便小僧を見たのも3年目、それも友達に付き合っての事だった。そんな感じだったので、コンピエーニュの事も全く調べていなくて、パリ郊外の町という認識しかなかったから、コンパートメントで乗り合わせたマダムたちの情報はとてもありがたかった。

 コンパートメント形式の列車は、ヨーロッパでももう旧式で、フランスで乗ったのはこの時だけだった。ベルギーでは、ルクセンブルク行きの列車で一度遭遇した事があるだけ。イタリアでは、20年近く前はよく遭遇したが、おそらく今はもうなくなっているだろう。

 列車の形だけでなく、北フランスでは鉄道事情がこの20~30年で変化している。ベルギーから国境を越えて北フランスへ鉄道で行くには、リールという北部の工業都市まで直通路線があり、ルーベはリールの1つ手前の駅になる。しかし、リールからパリ近郊のコンピエーニュに行くには乗り継ぎが必要で、時間もかかるし本数も少ない。ベルギーからコンピエーニュへ行くには、一度タリス(ベルギーの新幹線)かTGVでパリ北駅に出て、逆戻りする方が早いし簡単なのだ。

 しかし、パリからコンピエーニュへ行く路線は週末本数が少なく、当時はパリに一泊しないと前日のチームプレゼンテーションの開始時間に間に合わなかった。それが10年くらい前だったか、何気なく時刻表を確認していたら、パリ北駅からコンピエーニュへ行く路線が増便していて、当日中の移動が可能になった事が判明した。それ以来、嫌いなパリには前泊しなくなった。

 初めてコンピエーニュに行ったときは、一度リールに出て、そこからTGVに乗った。当時はブリュッセルに出るのにバスと鉄道を乗り継いで2時間くらいかかる西フランダースの村に滞在していたから、その方が早かった。あるいは、ブリュッセルに出た方が簡単だったり早かったりしたのかもしれないが、まだインターネット黎明期で、鉄道も紙の時刻表で調べるのが普通な時代だったから、知らずにいたのかもしれない。ホームステイ先のファミリーは鉄道で旅行をするような人たちではなく、車中心の生活だったから、鉄道には疎かった。

 何故10年前に、北フランスの路線が増便したのかは勉強不足でわからないが、バランシエンヌの周辺にもトラムが開通したりしていたので、北部地域全体で公共交通機関の整備が進められていたのだと思う。昔はよく、北フランスのレースも取材に行っていて、ローカル線やトラムにはしょっちゅうお世話になっていた。しかし、滞在拠点を西フランダース州からベルギー中心部のブリュセルに変えてからは、北フランスのレースは遠い存在になってしまった。

 ベルギーは小さい国だとは言え、ブリュッセルからフランス越境の拠点となるコルトレイクまでは、1時間半近くかかる。そこから更にフランスの田舎町を目指すのは時間もかかるし、かなり難易度が高いのだ。今はブリュッセルよりも更に離れたルーヴァンを拠点にしているから、始発で動いてもレースのスタートには間に合わず、どうしても行きたければ前泊しなければならない。他のレースとのスケジュール的な兼ね合いもあり、そこまでして取材には行かなくなってしまった。アモリー・スポール・オルガニザシオンの運営は最低だが、フランスのローカルレースの主催者はとても親切で、日本からの取材を大歓迎してくれていたから、もう行けないのはとても残念だ。

 話をパリ〜ルーベに戻そう。コンピエーニュでスタートにさえ合流できれば、たとえドライバーが居なくても、知り合いに頼んで車に乗せてもらえるので、ルーベまでは移動できる。春先の1ヶ月間にベルギーとその周辺で開催される他のレースは鉄道でスタートとゴールに移動可能だが、パリ〜ルーベだけは不可能だ。もしかしたら、今のダイヤなら可能かもしれないが、昔はレースがスタートした後、コンピエーニュからローカル線を乗り継いで北上してルーベに行っても、ゴール時間には間に合わなかった。一旦パリに戻ってリールまでTGVで移動し、ルーベ行くルートでもダメだった。それだけの距離を、自転車選手たちは移動しているのだと実感できる事実だ。

 こうして回顧録を書いていると、1つのテーマで次々といろいろな事を思い出し、取り留めもなく書き続けてしまう。作文の時間には、原稿用紙を何度もお代わりしてしまう子供だったから仕方ない。まだまだ書きたい事は尽きないが、今夜はこのあたりにしておこう。




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