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勇気ある人は、自己観察を諦めない

自分に自信が持てません。どうしたらいいでしょう? ネガティブに考える癖は、どうすれば治りますか? 事あるごとに、「どうせ私なんて...」と思ってしまう。なぜ人は、他人と自分を比較して、自信をなくしたり、マイナス思考の沼にハマったりするのか? 仏教の答えは実にシンプル。心のどこかで、「私はたいした人間なんだ」と思っているからだ。

納得できないかもしれないけど、事実だから仕方ない。自分自身をありのままに見つめて、「私は、たいしたことない、ちっぽけな存在だ」と本心から認めているなら、他人と比べて落ち込んだりしない。「あの人すごいな~、 とてもじゃないけど、かなわないw」と客観的に確認して終了する。そこで自信を失ったり、ネガティヴ思考にハマるのは、傲慢さのゆえ。「私」という存在を過大評価しているから、現実の姿に直面させられたときに受け入れられず、嫌な気分に襲われてしまう。

では、堂々とした自信家や、過剰なまでのポジティブ人間はどうだろう? こっちもまた、ありのままの自分を認識できず、間違った「私」を妄想している。一流大学を卒業した新人が、会社で雑用を命じられて、「なんで私が雑用なんか!」と憤慨したというのは、よく聞く話。「私は、頭がいいスペシャルな人間なんだ」と強い自我を持ち、「ちっぽけな私」という現実を受け止められないからこそ生じる感情だ。

要するに、「自信がない・ネガティブ」と「自信がある・ポジティブ」は、一見対極のように見えて、根っこは同じ。「私は、とても小さな存在だ」などとは思いもしない不遜な態度が根底にある。私たちはみな、ちっぽけな存在なのに、多くの人は認めようとしない。「そんなことはない」と感情的に反発する。「一人ひとりが、かけがえのない存在だ!」と声高に主張したりする。

でも私もあなたも、ちっぽけな存在であることを否定する必要って本当にある? 空を見てみよう。輝く太陽がなければ、私たち人間は存続できない。人間にとって必要不可欠の、なくてはならない大切な星、それが太陽。だが広大な宇宙では、太陽さえも無数にある星々の一つにすぎない。この宇宙の何もかも、おしなべてちっぽけなのだ。ならば「私は小さな存在じゃない」と肩肘張るなんて、バカバカしくないだろうか。ありのままの自分を認められるようになれば、人と比べて落ち込んだりせずに済むし、他人を見下すような愚行も犯さずに済む。誰かに何かひどいことを言われても、「ああそうですか」と冷静でいられる。いついかなる時も、落ち着いて安穏に過ごせるようになる。

「私という人間は素晴らしいスペシャルな存在だ」と思うのは自由だけど、それは驕り。かといって「私なんて…」と卑下するのも意味がない。正しいあり方は、ただ一つ。自分を観察して、不完全な存在だという事実を素直に受け入れる。私が不完全で平凡でも、世界には何の不都合もない。私ができないことは、能力ある他の人がやってくれるだろう。それを羨んだり妬んだりしたところで、気分が悪くなるだけ。何の得もない。私は自分にできる仕事を精一杯こなせば充分だと、そう思っておけばいい。

勇気ある素直な人の心は、不完全な自分を受け入れたうえで、完全無欠・完全無垢に対する期待は決して諦めない。本格的に完全無欠・完全無垢にならなくては恥だという気持ちになる。自己観察で発見するあらゆる短所をなくそう、無効にしようという気持ちになる。短所を発見することで、心はダメージを受けざるを得ない。それでもめげずに繰り返し、より鮮明に短所を観察すると、跡形もなく消えていく。私は完璧だと、とてつもない誤解に陥っていた心は、正真正銘の完璧な心に近づいていく。これが仏教の自己観察の秘密だ。

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