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2020.08.19 晴 27°/33° 曲がった子

真っ直ぐで綺麗な実がなったら、なんだか嬉しくなってくる。今回は立派な実がついているし、やっぱり自分で採ったから味も最高(に感じてしまう)だから、畑はやめられないよねって。延々に畑へとのめり込んでいくわけです。

今日のカバーは あれ?曲がっているよね です。

じゃあ育てた樹に曲がった実がついていると悲しくなる。って、そんなことは200%ないわけで悲しくなるどころか、愛らしく感じてしまう。そこにはほかにはない魅惑があって、ずっと眺めていられる。そこには私は引き寄せる何かがある。見た目に惹かれる部分もあれば、どうしてこういう実がなったのかって理由が知りたくなってくる。

おいおい、そうなるとあなたは「曲がった実」の方が好きなのかよ。立派に実った実ができたら「ただただ真っ直ぐだとなんだかつまらない」ってなるかって、ならないよ!


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その全部が愛おしい

って、いつから詩人になったんだよってことなんですが、多分今です。いまいまです。

こうなんといいますか、どっちがいい悪いとか、どっち側につくのかつかないのかって、なんて視野の狭い話をしているんだろうって思う。このきゅうりは私が播いた種から成長して、その結果として目の前に実っているわけです。だから、その全てを受け入れることが心の成長にも繋がるようにも感じます。


自分が播いた種を刈り取る


昔からある言葉ですが、目の前で起きていることは自らが播いた種であって、いつかは刈り取らなければなりません。

良い悪い関係なくすべての実を全て刈り取った先には、いろいろな可能性が広がる気がする。

刈り取ったものをしっかりと噛み締めながら「味わう」ことでいろいろな発見があるでしょう。

カラダに摂り入れることは「自らの糧」とすること。結果全てを受け入れること。次へのエネルギーに変えることができる。

刈り取ったものから種をとることは、その種を播くか播かないかの選択肢を得ることができる。

それは未来へつなぐ種を自ら選ぶことができるということでもあり、播かない選択もできる。そうして少しずつ得たい結果へ近づいていく。

なかなか意図した結果にはならないけれども。それがまた面白かったり。


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曲がりがかわいい「ときわ地這い」

目の前で起きている事に対して、受け入れることができない、目をそらすこともできる。またそのまま放置することも。

そうしているうちに、目の前の実は知らぬ間に地面へ落ちて、意図しなかった種が播かれて、いずれまた自分へと還ってくる。その意図しない複雑に満ちた世界に身をゆだねるのも楽しそうで惹かれる部分ではあるけれど。私はまたそこに向かうには早過ぎる気がするかな。

そんな事を書いていて、ある地球の裏側にいるお坊さん事がふと浮かんでくる。その自由さと言ったら。そちら側にいったら還ってこれない気がする。きっと心地良すぎて。


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スーヨー夫妻

スーヨー夫妻は仲良し夫婦。水やりする手は動かしながらずっと眺めている。見れば見るほどに優しく朗らかな気持ちになる。そんな気持ちから始まる一日はなんて清々しいことでしょうか。

ただ水やりをしているだけ。だけれど、ちょっとだけひんやりした空気に包まれながら、無心で早足で水場と畑の往復をしながら手際良く水をまく。私にとっての無心の時間。ある意味瞑想にも近い感覚。これが味わいたいがために早起きしているのかもね。


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もう次の実ができている

ゴーヤさんは私を飽きさせませんね。収穫して食べ終わると。自動的におわかりの実がなっている。まだ収穫している実が冷蔵庫にあって、どなたかにお裾分けしても、今度はあなたの番よ!って、私を気遣って身をつけてくれている。なんて私思いのゴーヤさん。今のところ炒めてばかりだけれど。そろそろ別の食べ方で楽しんでもいいかも。


とまあ、曲がった実からやたらと飛躍してよくわからないけれど、満足している私がここにおります。畑をやっているだけでもこれだけの気付きをいただける私って、幸せ者ですね。

また明日も幸せを分けてもらいに、畑に行ってこよう。

今日はちょっと早いけれど、昨日の夜更かしの分を取り戻さなければ。
本日も一日お疲れ様でした。おやすみなさい。

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