選ばれる、選ぶ、選ばない。
無名の俳優をしていると、自分は「選択される側」なのだと意識することが多い。
書類や動画、実技で審査をされることはもちろん、エキストラやサブキャストの仕事で、運良くカメラ前の位置に立てても「あれ? よく見たらメインキャストと髪型被ってる?」というような事があれば、他の人と立ち位置を交換される場合もある。
もちろん、逆パターンもあるので恨みっこはなし。
選ばれる/選ばれないは自分の努力や創意工夫、時には運にも左右されるので落ち込んでも仕方ない。むしろ、そこが面白いとさえ思う。
しかし常に「選択される側」の意識でいることは、生きる上でバランスが悪い。これは、左右で肩紐の長さが違うリュックを背負って歩くようなものだ。短時間なら大した影響はないが、長引けば知らず知らずのうちに歪みが出てくる。
こういう時は、生活の中で自分が「選択する側」でもあることを再確認することが大切だと思う。
今日だって、玄関で革靴ではなくスニーカーを選んだり、太陽が眩しいから日陰のある道を選んだり、ターリー屋の2色カレー定食の中でバターチキンとマトンを選んだりした。(ナンのおかわりもした)
この人生は、私の選択から出来ている。
話は変わるが、下の画像は今やっているゲームで出てきた選択肢。
少し不思議なファミレスに閉じ込められてしまい、そこからの脱出を目指している。
たぶん「ボタンを押す」を選んでコーヒーを淹れるべきなんだと思うけど、何が起こるか分からなくてシンプルに怖い。だって、「嫌な予感がする……」って言ってるもん主人公が。私なら絶対に淹れない。
怖すぎるので一旦Switchを置いて、チマチマとこの記事を書いている。
選択を先送りにすることで生まれるものもある。
そんな学びのあった日だった。
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