理解できなくても寄り添うってこと
昨日、こんなnoteを書きました。
内容は、「辛かった教習所で急に優しくされたら、泣いちゃった」という話なんですけど、何が泣いちゃうほど嬉しかったって例の教官が自分に寄り添ってくれたことなんですよ。
運転ができない私と運転ができる教官の間には大きな隔たりがあります。
完全に対極にいるんですから。
私はなぜできるのか分からない。
教官はなぜできないのか分からない。
どちらかが寄らないとずっと平行線のままです。
私が寄れていたら、なんの問題もありません。
運転できています。
寄りたいのに寄れないから困っているのです。
こうなったら、教官に寄ってもらうしかない。
しかし、寄ってもらえなかった。
隔たりに細い縄ばしごをかけるだけで、「もういけるだろ?」「無理じゃないよな?」と私を待ってるだけ。
そんな縄ばしごでもいける人はいる。
しかし、いけない人だっている。
私がそう。
申し訳ないが、頑丈な吊り橋がないとそちらにいけない。
だが、その願いは耳に入れてもらえなかった。
これでいけないと困る、そんな無言のメッセージを感じました。
そのため、教官と私の隔たりは拡大の一途を辿っていました。
そこに現れた救世主…!
それは例の優しい教官です。
では、何が他の教官と違ったか。
話を聞いてくれるところです。
「何が苦手?」「聞きたいことある?」
こういう初手の問いかけは他の教官もしてくれます。
しかし、その後の反応のせいで、話を聞いてくれた感じがしないのです。
私の話を聞いた後、すぐに「え〜、そうかな?(笑)」「でもさ〜・・・」と反論してくるからでしょう。
その反論自体は間違っていないんだと思います。
運転ができる人から見たら、私の言い分はとんちんかんでしょう。
しかし、こちらは切実に分からないことを伝えたんです。
なのに、それを「なぜ分からないのか分からない」と返されてしまったら、そもそも最初の問いかけに意味はあるのでしょうか?
しかし、例の教官は、「う〜ん、そっか〜。こういうところが苦手なのかな?」と頷いてくれたり、「曲がるとき、どこを見てる?」と更に質問を重ねてくれたりしました。
私の言い分を理解しようとしてくれている……!
その理解しようとする心意気がとても嬉しかったです。
100%の理解はできなくても、
すぐに解決はできなくても、
理解しようと努力する。
その姿勢に救われることがある。
それが寄り添うってことなんだろう
次は自分が誰かに寄り添えるように
この体験を忘れないようにしようと思いました。