マダムの連れ合い
「ちゃんと歩かないと、車に轢かれるでしょ。」
その奥さんは、連れ合いに優しい声で話している。が、その連れ合いの反応はない。
「行きますよ。歩こうね。」
老いた連れ合いに向かって言う。
やはり言葉のリアクションはない。
連れ合いというのは、犬のことである。早朝、犬を連れて歩いているマダムが、しきりに声をかける。
この光景を見て、若い頃なら、「犬に話しても解らないのになあ。」と思ったかもしれない。
マダムと似たような年齢になった私は、「うるさいよ」とも、「早いよ」とも、何にも言わない犬が偉く見えた。
何にも言わない犬に向かって、話しかけるマダムは、子育てをしているつもりなのかもしれない。
マダムから大きく離れて歩きながら考えた。
(連れの犬は、マダムの言葉がまったく解らないではない。言葉の意味は解らなくても、声の調べから、マダムがご機嫌なのか、優しくしてくれているのかは解っているだろう。マダムはマダムで、自分が独り言のように言っている声かけが、連れの犬に伝わっていることを信じている。この二者の関係はうまくいっているのだ。これが本物の連れ合いだったら、「うるさいよ」ということになるだろう。)
犬は何にも言わない。人のような言葉を持たない。嘘もつかない。裏切らない。
そんなことを思いながら、時計を見ると、5時半であった。公園の東から渡ってくるらしい風は秋風だった。
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