M女先生と下敷き事件
小3の時の担任は、M先生だった。教壇に立ったその女先生は、メガネをかけた40歳ぐらいの背の高い先生だった。
始業式の日が終わって、自宅に帰ると、「どんな先生」と母が尋ねた。
「うん、背の高い女先生」
それだけ言って、好き嫌い、相性などは何にも言わなかった。正直に言うことが憚れる雰囲気があったからだ。
本当は、その時の印象を正直に呟きたかったのだが、たしなめられるに決まっていたので、黙っていた。
今だから言葉にできる。
金縁のメガネの奥で怖い目をしていた。好きになれそうにないなあ。俺はきっと怒られそう。強く塗られた口紅が、少年の不安を一層強くしていた。
M女先生は、甲高い声でA男をしばしば叱った。A男は多動気味の子で、おしゃべりが多かった。で、ある時1番前の席に移ることになった。M先生の命令だった。
それでも、A男のおしゃべり、手いじりはやまなかった。A男は、アルマイトの下敷きを持ってきていた。当時、ノートの下敷きと言えばプラスチック製(セルドイド製の下敷きもあった)だったが、A男は父親が工場で造ってくれたアルマイトの下敷きを自慢気に使っていた。
M先生は、そのアルマイト下敷きが気になっていた。
A男がしばしば愛玩していたからである。
ここから書くのが苦しいのだが、勇気を出して書くことにする。
ある日の算数の時間だった。急にM先生が1番前の席(廊下から2列目1番め)A男の下敷きを取り上げて、あろうことかA男の右手首をその下敷きで叩いたのである。その瞬間、真っ赤な血が飛び散った。
先生は狼狽し、持っていたハンカチで出てくる血を抑えようとする。私たち子供は息を止めて黙って見ていた。騒ぐものは誰もいない。
「自習して。」
こう命じられ、私たちは固まるように下を向いた。
私はA男と先生をじっと見ていた。
先生は、A男を連れて出て行った。
算数の時間が終わりかける頃、A男の母親と先生が教室にやってきた。
先生は謝罪しながら、
「お願いいたします。」
と言う。
どうも親が病院に連れて行くようだった。ここからは私の予想である。
A男は保健室で応急手当をしてもらった。が、傷は大きいので病院での治療を要した。で、先生はA男の自宅に電話をして母親に来てもらった。
算数の時間が終わっても自習だった。先生は授業どころでなかったのだろう。
4時間目が終わり、A男は白い包帯を巻いた右手首を首に吊って戻ってきた。その時、一緒に付き添っていた母親のなんとも言い難い表情が忘れられない。
母親は、「6針縫いました。」と小さな声で、M先生に呟いた。
母親は、
「よろしくお願いします。」
と言って、教室の引き戸を閉じた。
M先生はA男が嫌いだったのだろう。A男もまたM先生が嫌いだったかもしれない。
人には相性があるから、嫌いでも構わない。が、この下敷き事件以来、私は先生に対する疑いのような、腹だたしいような気持ちが心に底に沈むようになった。
今でも解らない。
M女先生は、アルマイト下敷きを取り上げて、どうしてA男の右手首をその下敷きで叩いたのか。そんなことをすれば切れることが予想できなかったのか。
この出血事件の顛末を母に話したことはない。