悲しみからとったダシがこれほどうまいとは 連載③
発病したのは、高校二年生のときだった。
電車の中、知り合いはひとりもいないのに、誰かの視線を感じる。視線の方向を見ると黒い服を着たひどく陰鬱な男がいて「死んじまえよ」と言ってくるのだ。
その声を境に乗客全員に「死ね」と言われる。
私にとって電車や人混みは地獄で、だからと言ってひとり歩く道が避難所でもなく、ひとりになればひとりになったで、また先程の黒い服を着た男が現れて「死ね、死ね。お前の日々が何になる?お前の日々に価値があると思ったことあるか?お前は、どの生物よりも、どのゴミよりも、無駄な存在なんだよ。だから早く死んじまえ」と言ってくるのだ。
だけど、黒い服を着た陰鬱な男は高校生活の中どこにもいられない、誰にも声をかけられない私にとって唯一、本当を言ってくれる存在で、いなくなって欲しくはなかった。
男はたまに天使のようにやさしくもなる。
時折、彼は私に言うのだ。
「もう楽になっていいのだよ」と。
その言葉は裏を返せば「死ね」という意味なのだが、私にとっては救いで地獄のような日々の中、彼は私の理解者でもあった。
保健室の教諭に受診を勧められて、精神科に行った。
その頃になると強迫観念がひどく、5分に一回は手を除菌ティッシュで拭かないと「死ぬ」という恐怖に苛ままれた。
精神科に行き、私に付けられた病名は「統合失調症」だった。
病名が付けられた瞬間「助かった」と思った。
私の日々にたったひとつ、私という存在を位置付けてくれる名前が付いた。
そして、病名が付いたことで私が「怠け者」ではないことの証明が与えられたような気さえした。
医師は私に言った。
「この病気は治る確率が低い」と。
私はその言葉がうれしかった。
この病気さえ治らなければ、ずっとそばに理解者がいる。この病気さえいなくならなければ、ずっと私に「病名」という名前が付く。
そんな歪んだ考えが私の中にあった。
高校生活の三年間、私の病気は悪化し続け摂食障害なども併発した。
それでも私は書くことがしたくて、東京の大学を受験した。
私が通っていたバカな高校の教師たちは所謂難関校に大学受験する私を、愚か者として扱った。
「お前なんか、受かるわけないだろう」
体育教師に言われたその言葉を私はきっと一生忘れない。
大学は、推薦入試で一発合格した。
私が合格した途端、私をみくびってた教師たちの態度は変わった。
泥水のようなアドバイスしか私にしなかった担任は、難関大学に合格した私を急に自慢の生徒だと言い出した。
クソだと思った。
あの高校の中で私は誰のことも好きじゃないし、誰のことも認めない。
私の今があの人たちのおかげであるなんて、微塵も思わない。
私の現在は、私が認めた大好きな人たちのおかげで成り立っている。
苦い過去が現在を変えるなんて思わない。
経験は全部私のもの。
登場人物たちは全員私の道具でしかない。
でも、その大学も一年も経たずにやめてしまった。
最悪な病状で一人暮らしなんてできるはずがなかった。
私は早々に東京を離れ、実家に戻った。
実家に戻っても私の病状は良くならず、腕を切り、何度も自殺を考え、自殺未遂を実行し、何度もこの世からおさらばしようとした。
私の闘病は現在も続いている。
私の病気のひどい時期は、結局最近まで続き、その期間は約九年間に及んだ。
でも、こんな話を書いているからと言って同情して欲しいなんて塵ほども思っていない。
数日前に統合失調症の症状がほとんど出ない日が一日だけあった。
感情の起伏もない、幻覚も見えない、幻聴も聞こえない、精神も頭も本当にすっきりとして、精神病でない人の生活はこういう風なのかと感動した。
衝動的に人を傷つけようとも、自分を傷つけようとも思わない。
誰かを試して安心しようともしない。
その日の自分が私は心からいとしかった。
そんな折、恋人に「統合失調症は治るんだよ」と言われた。
私は少しも知らなかったけれど、彼は本やテレビなどを読んだり見たりして、統合失調症について調べていたらしい。
彼は私に「回復期に入ったら治るのは早いんだよ」と言った。
そう言われたのが、私の前述した「希望の一日」だった。
その日、私は思った。
もしも、こんな風に毎日を過ごせたら、もしもこんな風に生きられたら、私は何を捨てられるだろう、と。