11月19日に来た突然のたよりと、自分の価値観。
いきなり冬が来た。
最近は、予告なしで来るからたまったもんじゃない。とはいえ、立冬には入ってるんだから、いつ冬が来たって文句は言えないんじゃないかとも思ってる。
いきなり来た冬と同時に、町内活動の役員決めの案内文書もいきなり来た。
ポストに入っていた手紙を見て、「もう、食っちまおうかな」と思った。読まずに食べるというのも、一つの手ではないかと。だって、本当にめちゃくちゃめんどくさい。さらに、今回は逃げ切れるか逃げきれないか、かなり微妙な感じの立ち位置にいる。私の口からは、大きなため息が口から溢れた。
とはいえ、何が嫌なのだろうか?
私は冷静になって、自分が何を嫌がっているのかを考えてみることにした。漠然と「嫌」だと嫌悪感を抱いているけれど、実際に何が「嫌」なのかが分かっていないな、と思ったのだ。私は個人的に、ざっくりとした「不安」や「不満」は、言語化したり具体化すると解決することが多いのではないかと考えている。
ということで、考えてみよう!
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何度か考えてみたけど、このループになる。
まとめると、
「意味や対価、やりがいを見出せない活動に時間を取られることが嫌」
だと言えそうだなというところまではわかった。
対価がないのは仕方がないと思っている。かと言って、対価をもらえればやるかと聞かれれば、やらないと答えると思う。どちらかといえば、時間を拘束されることに拒否感を抱いている気がする。
それはきっと、私にとって「時間」が、非常に貴重なものだと考えているからに違いない。時間外労働や休日出勤が嫌な理由も、これに該当すると思う。
話は変わって、今思いつく中で、私が日常生活で大切にしているものは、「時間」「家族」「お金」「体」かな、と思う。この中で「時間」に関してだけ、減っていくイメージを抱いている。
お金に関してはサラリーマンなので、ある程度、担保されているし、家族も愛情をかければ同等の愛情が返ってくるという経験則がある。体については、衰えを感じるものの、運動や食事などで維持できているとも思っている。
けれど時間については、いくら頑張って確保しようにも、自分の自由時間というものは少ない。それに、人生という長いスパンで見た場合、今より持ち時間が増えることはなく、減っていく一方だろうと考えてしまう。さらには体力や気力、資産などを加味した場合、自分の思い通りに動ける持ち時間というのが、ものすごく少ないような気がする。それに、いつ死ぬかなんてわからないわけだし。
そういった先入観がある中で、自分の時間を無駄かもしれないものに浪費していくことに、私は苦痛を感じるのだろうな、と思った。
とはいえ、浪費は悪いことなのだろうか。
実際の私は、お金を無駄遣いするし、家族とも喧嘩をする。運動なんかしなくてだらける日もあるし、思い返せばチートデーばかりだ。時間に関しても、有意義なことは何もせず、SNSばっかり見て無駄遣いをすることだってある。
それなのに、ボランティア的活動だけが嫌って、なんだか変な気がするなぁと思った。もちろん、性格上「やりたい! 私がやります!」なんてことは言わないだろうけど、そこまで嫌がらんでもいいんではないか、と思ったりもした。
どちらかと言えば、無駄遣いが嫌だというより、自分の貴重な小銭(時間)を、知らん人のために使いたくないというケチくさい根性が、「嫌」という感情を生み出している気がしてきた。
募金でもするつもりで、自分以外のことに時間を使うことに対して、寛容でいてもいいのかもしれない。
なんて、言えたらなぁ。