白雪美香は彼氏ができない!_第1話
プロローグ
「はぁ、はぁ、はぁっ」
白雪美香は、ぽっちゃりとした白く柔らかな肉体を揺らしながら、福岡市のセントラルパークと言われる大濠公園を走っている。
5月中旬の福岡は夏日になることもあり、今日の気温は25度を超えていた。気温が上がることは白雪美香もわかっていたが、ここまで暑くなるとは予想だにしていなかった。もう夏じゃないか、と白雪美香の荒い呼吸の中にため息が混じる。今更ながら厚手の服を着てきてしまったことを後悔していた。でも、どうしても、このぽっちゃり体型を人前に晒したくはなかった。
そう思って着てきたビックサイズの黒いパーカーに、高校生の頃の紺色のジャージの長ズボン。
暑い、暑すぎる。
汗っかきの白雪美香の額には薄らと汗が滲み、パーカーの下に着ていたアイドルグループのコンサートで買ったTシャツは、すでにぐっしょりと汗が染みていた。
大濠公園は一周2km。
ぐるりと池を取り囲むように、ジョギングコースが2km続いている。大きな池にはスワンボートが浮かび、池の周りではカップルたちが会話を楽しんだり、老年の夫婦が可愛らしい犬を散歩したり、思い思いにジョギングコースを楽しんでいる。
ジョギングコースのさらに外側には公園があり、親子連れが賑やかな声を上げながら、休日の土曜日を楽しんでいる。
白雪美香はその中で唯一、ただただ苦しそうな表情を浮かべていた。
「ねぇ、ユキミ。こないだ見つけたnoteの記事がさ~」
軽快なリズムを刻みながら白雪美香の隣を走る真中千代子は、白雪美香に声をかけた。
シラユキミカの真ん中三文字をとって『ユキミ』。それが白雪美香の小学生の頃からの愛称だ。
真中千代子、愛称チョコは厚着のユキミとは対照的にサラッとした素材の白地のTシャツに、涼しげな素材の短パンを履いている。短パンの下にはこちらも涼しげなツルツルとした素材のスパッツ。ジョギング用のスニーカーの上の足首はキュッと締まっていて、アキレス腱の筋が美しい。
ぽっちゃり体型のユキミとは対照的にストイックなチョコは、小学生の頃からスリムな体型を維持している。
「の? なっ、な、に、そ……」
ユキミは息も絶え絶えに、言葉を発した。息切れしていたところに急に話しかけられたせいで、呼吸のタイミングを失ったユキミは苦痛に顔を歪める。
やばい。苦しすぎる。なんでわざわざ休日にこんなことしてるんだろう。いや、別に誰も走りたいって言ってないのに。くそ~、チョコに体重の話するんじゃなかった。もう無理、死ぬ。やばい。死ぬ。のど乾いた。苦しい。
ユキミは、はっはっはっと短く息を吐きながら、チョコの強引さに負けて大濠公園まで走りに来たことを後悔していた。まだ走り出して、5分も経っていないけれども……。
「チョコ~、無理だって。今のユキミに返事ができるわけないやん。ユキミが走りながらおしゃべりするとか、完全に無理ゲー」
ユキミとチョコの隣を自転車で並走している一期慶喜は二人に声をかけた。一人、普段着で自転車に乗って、ケラケラと笑っている。
愛称ケイキ。中肉中背。ダイエットも筋トレにも興味がない、ジェンダーレス男子。汗をかくとメイクが落ちるから、と走ることはせず、自転車でユキミの様子を見にきていた。
「の、の……のど……」
肩を上下に激しく揺らしながら、ユキミは右手で喉を抑え、その場で立ち尽くすと、天を仰ぎ見た。空は突き抜けるような青空。ぷかぷかと綿飴みたいな雲が浮かんでいる。
ああ、ビール飲みたい。この際、ノンアルコールでもいい。クリームソーダでもいいや。なんでもいい。のど乾いた~!
声にならない声を、ユキミは空に向かって無言で吐いた。
「おい、ユキミ、大丈夫か?」
放心しているように見えるユキミに、ケイキは声をかけた。
天を仰ぎ見ていたユキミはガクッと頭を落とし、項垂れる。だらしなく垂らしていた両腕をなんとか動かして、両手の手のひらを膝に置いた。荒かったユキミの呼吸は次第に安定。最後に一呼吸おくと、ユキミは顔を上げた。ユキミを心配そうに見つめている二人をじっと見つめる。
「ねえ、スタバ行こ。喉乾いた」
ユキミは満面の笑みを浮かべた。ユキミの頬がむにっと膨らむ。
真っ白で滑らかな肌にもっちりとした頬。まんまるとした顔立ち。クリっとした二重瞼。白い肌に生える赤い唇。
まるで雪見だいふくを擬人化したような女。
それが白雪美香である。
1 白雪美香は彼氏が欲しい!
ユキミこと白雪美香、チョコこと真中千代子、ケイキこと一期慶喜は、三人仲良く大濠公園内のスターバックスのテラス席に腰をかけていた。
身長153cm、体重57kg、体脂肪率26%の色白でややぽっちゃり型のユキミが手に持っているのは、5月に発売されたばかりのスターバックスストロベリーフラペチーノ。
身長167cm、体重48kg、体脂肪率17%の色黒で痩せ型、筋肉質なチョコが手に持っているのは、カフェインレスのアイスコーヒーグランデサイズ。
身長172cm、体重56kg、体脂肪率20%の中肉中背、ジェンダーレス男子のケイキが手に持っているのは、オーツミルクのラテのベンティサイズ。
三人は小学校の同級生で、所謂、幼なじみ。社会人三年目となった25歳になっても、週末になるといまだによく遊ぶ友人だ。体重から体脂肪、これまでの恋愛遍歴、好きな食事から嫌いな教科まで、お互いのことをほとんど知っているので、間違いなく親友と言っていい。
今日は、ユキミの体重がケイキの体重を超えたということで、ピラティスインストラクターのチョコ主導の元、ダイエット企画が行われている。誰しもが一度は通ってきたであろうスタンダードなダイエット。それがジョギングだった。
ユキミはチョコに「ダイエットするよ」と言われてからというもの、「絶対に無理。私が走れるわけないやん」と何度もチョコの誘いを断った。ケイキの体重がダイエットのスタート合図になるとは微塵にも思っていなかったし、笑いが取れるかなと思って自分の体重を軽率に喋ったことをユキミは後悔していた。
「別に私はぽっちゃりでもいいから」とユキミは何度もダイエットのお誘いを断った。しかし、チョコは強情で有名であり、一度決めたことを達成するまで諦めない不屈の精神の持ち主である。
「ぽっちゃりじゃなくて、それはデブだから。諦めろユキミ」と容赦ない言葉を吐かれ、強制的に大濠公園まで連れてこられることとなった。
ケイキはユキミのダイエットの引き金が自分の体重にあると知り、大濠公園まで駆けつけていた。ケイキは実家の花屋を手伝っているが、新しいことができないかと花屋を改装。空きスペースをレンタルスペースとして活用し、それがなかなか好評で多忙を極めていた。
二人とも忙しい中、ユキミのために時間を割いたわけだが、そもそもユキミがちゃんと走るわけがなかったと二人とも思い直した。せっかくの休日に3人集まっているのだしと、ユキミのリクエストどおりスタバに入ることにした。チョコは一見すると、口も悪くユキミに厳しく見えるが、基本的にユキミには甘い。
「そもそもnoteの記事って何? ニュースかなんか?」
ケイキがチョコに尋ねた。
「ああ、そっからか」とチョコは自分のスマートフォンを取り出して、白地に『n』と書かれたシンプルなアイコンをタップした。
チョコは自分もアカウントを持っていて、ピラティスだとかフィットネスについての文章を公開したり、youtubeのアカウントと連携させたりして、発信しているとのことだった。有料記事で収入を得たり、全国のフィットネス仲間と交流したりと、色々楽しいSNSなんだよと教えてくれた。
ユキミはピンと来ていない様子だったが、ケイキは興味があるのか、真剣にチョコの話を聞いている。
チョコのアイコンはチョコモナカジャンボよろしくの綺麗に筋の入った腹筋の写真だった。ユキミとケイキはさすがチョコとゲラゲラ笑う。
「じゃあ私やったら雪見だいふくで、ケイキやったらイチゴケーキにせないかんね」
ユキミがそう言ってケラケラ笑うと、チョコはアカウント作ったら教えてよと言った。
「あ、話はそれたけど、見せたかったのはこれこれ」
チョコは慣れた手つきで、スマートフォンを操作すると、画面を上にしてテーブルの上にトンっと置いた。
白い背景に青い文字で『青ひげペローの婚活日記』と書かれ、周りは小さな青いドットがあしらわれたサムネの下に、黒字の明朝体のタイトルが画面上に現れた。
「で、これがどうしたと?」
ユキミがチョコのスマートフォンを覗き込んだ。
「なんかさぁ、キモおもしろいとって。ちょっと二人にも見せたいと思って」
チョコはいたずらっぽく笑うと、肩をすくめた。
「なんでいちいち、キモいのをわざわざ見せるとよ。そんなん見たくないし」
ユキミが顔を左右に振って眉間に皺を寄せると、チョコはごめんごめんと笑った。口では謝っているが、心なしかニヤついているように見える。
「キモいはキモいんやけど、なんか面白いんよね。ちょっと読んでみたらわかるって」
チョコは自分のスマートフォンで可愛らしいサクランボのアイコンの横に『青ひげペロー』と書かれたアカウントの下までスクロールする。
チョコが記事を読んでもらおうと、青ひげペローのプロフィールにについて説明を始めた。
ペローは、35歳男性。福岡在住。
青ひげにコンプレックスを抱いている。しかしコンプレックスではありつつも、青ひげに誇りを持っているらしい。この時点でよく分からないな、とユキミは思う。記事は定期的に更新され、主な内容は婚活の進捗具合についての報告。結婚願望は強いようだが、どこをどう読んでも童貞臭がするとチョコは言う。青ひげがフラれる原因だと断定し、青ひげを受け入れない女性に対して恨みつらみを述べているというもの。バズっているわけでもないが、モテない系男子から共感を得ていることと、ハッキリした物言いが一部の界隈でじわじわキているということだった。
ペローは公務員で、収入も安定しており、本人曰く性格も体型も普通。さらには顔も中の中。体臭もひどく臭いわけではない。特に何か決定的な問題はないはずなのに、女性が振り向いてくれない。食事を奢っても、次の約束が反故される。メッセージのやり取りでは盛り上がるのだが、対面になるととんとダメ。
フラれると原因の全ては青ひげのせいだと断定しているとのことだった。
女性が読むと胸糞悪い点もあるが、男性の一部からはよく言ってくれたと共感のコメントが上がっている。女性と思われる人からも同様のコメントが来ているので、一刀両断する物言いは、一部の人からは賞賛に値するものなのかもしれない。
ユキミは青ひげペローの記事を斜めに読んでみたが、正直、いい気持ちはしなかった。なぜ、わざわざチョコが私にこの記事を見せてきたのかもよくわからない。はっきりした物言いのチョコのことだから、面白いと本気で思っているのだろうけど、ユキミは自分のコンプレックスが刺激されるような気がした。ユキミも正直なとこと、このぽっちゃり体型のせいで彼氏ができないと思っている。一瞬、チョコが人の振り見て我が振り直せとでも言いたいのかと思って、イラッとした。ユキミの鼻息が荒くなる。
「ねえ、チョコさん。わざわざ、私にこれを見せるってことは、チョコはもしかして、私に彼氏ができない言い訳を体型のせいにする前に、ちゃんとダイエットしろって言いたいんですか?!」
ぷくぅとほっぺたを膨らまして、まるでフグのようになったユキミの鼻の穴から鼻息が噴射された。
チョコは少しだけハッと驚いたような顔をして、顔の前で手をヒラヒラと振る。
「ごめんごめん! ぜんっぜん、そういうつもりはなかった! こんなんネタやろうし、たまたま見つけて、このズバズバ言う感じがキモ白って思って。ユキミ、ノンスタ井上とか斉藤さんとか好きやしウケるかなって思っただけ」
キモ白ってなんだよとは思ったが、ユキミにはチョコが珍しく焦っているのが可愛らしく見えた。一瞬、勝手に青ひげと自分と重ねてしまったけど、ネタだと思って読み返せば面白いかもしれない。女性を下に見たような言い方は癪に触るが、自分だってフラれた時は、海底二万マイルまで落ちた自己肯定感を浮上させるために、相手の悪いところをチョコとケイキにぶちまけたりもする。
ペローはそれをテキスト化してエンタメにしているだけで、自分と何ら変わらないのかもしれないとユキミは勝手に納得した。
ふっと一息ついて自分の気持ちの落とし所を見つけると、ユキミは目の前にあったストロベリーフラペチーノをずずっと啜る。
「うんま。これ限定にせんで、ずっと売って欲しい。めちゃくちゃうまいんやけど~。運動した体に染み渡るわ~」
「おいユキミ、私の話、聞いとった? しかも、そんな甘いやつ飲んだら、せっかくダイエットのために走ったのに意味ないやん。まあ、5分も走っとらんけん、走ったうちには入らんけどな」
チョコが仕方ないなぁという、半分諦めのような表情をユキミに向けた。
「聞いとった聞いとった。ペロリーナかなんかの話やろ? 青ひげの。そういえば昔読んだ童話で『ペローの青ひげ』ってあった気がするけど、あれは気持ち悪すぎて読んだ日の夜、青ひげが夢に出てきたもん。だけど、これは確かに面白いかもしれん。ペロペロキャンディと友達になれそうな気がするもん」
ユキミは肩をすくめて、むにりと笑う。
「それに、ペロりんちょには共感できる気もするなぁ。私も彼氏できんのは、この体型のせいやと思う時がほとんどやし。だってほら、顔だって中の中やし、ぽっちゃりとは言っても、おっぱいも大きいやん? トークだって、軽快やし。ちょっと天然も混じっとるやろ。かわいいやろ? 私。なんでモテんのかな~って思うんよね。ほら、大抵の女友達はユキミかわいいって言ってくれるのにさ、恋愛対象に見られんのは、やっぱりこの体型のせいやと思うんよね。男の人はぽっちゃりが好きとは言っても、ガチのぽっちゃりは好かんのよ」
冗談とも本気ともつかないようなことを、ユキミはニヤニヤしながら呟いた。そして、先程まで着ていたビックサイズの黒いパーカーを豪快に脱ぐと、あらわになった白いむちむちとした右手を、左の二の腕に持っていく。真っ白なアイドルのライブTシャツの袖から覗く二の腕を右手でぶにっとつまんだ。触りごごちの良さそうな、ぷにぷにとした餅のような二の腕がぷるんと震える。
「これはデブではなくて、もっちゃり!」
チョコとケイキが思わずぷはっと吹き出すように笑う。
「もっちゃりってなんやねん」
とチョコがツッコミ、ケイキがユキミの頭をポンポンと二回軽く叩いてから撫でた。
「ほんと、ユキミはかわいいのにねぇ。なんでモテんのやろうね。大濠公園のスタバにアイドルのライブTシャツと紺色の高校ジャージっていうのは、そもそも恋愛対象にはなりにくいかもしれんけど。でも、僕の友達でもユキミのことかわいいって言う子はおるんやけどなぁ。まあ、みんな彼氏、彼女持ちばっかりやけん、紹介する人はおらんけど」
ケイキは軽く笑う。
ユキミはストロベリーフラペチーノを手に持ったまま、すっくとその場で立った。
「私、絶対痩せる! 痩せて、イケメンの彼氏をゲットする!」
2 白雪美香は一目惚れの達人!
薄明かりの室内で、ユキミはイケメンと対峙している。
室内の灯りは暖色系で、足元を照らすようにぼんやりと下から部屋を照らしていた。カーテンが締め切られた閉鎖された空間は、温度も湿度も高く、肌がしっとりと熱を帯びるような感覚があった。室内で炊かれたアロマの香りが鼻をくすぐる。ほんのりと甘いその匂いにユキミの意識は飛びそうになったが、その瞬間、足に衝撃が走る。
「痛い! 痛い! やばい、やばい! もう無理!」
ユキミは顔を歪めて悶えた。
歪んだ表情をユキミの足元から眺めている爽やかイケメンの足利琥太郎は、満足そうな表情浮かべている。スノーマンの目黒蓮のような好青年イケメンだ。
ユキミは自分の足越しに、ちらりと薄目で足利琥太郎の顔を見た。にこやかに笑っている顔が思っている以上にカッコよくて、足が痛いのも忘れて心臓がドキリと跳ねる。
「白雪さ~ん、ここですか? ここが痛いんですか?」
そう言うと琥太郎は、笑いながら、それも楽しそうにユキミの足の裏を親指でゴリっと押した。Sっ気のある笑い方。右の口角だけを少し釣り上げて笑う琥太郎の表情に、ユキミのハートは掴まれた。私ってMなのだろうか。ユキミは初めて自分の性癖について考えようとしたが、冷静になってみると性癖どころではないほどに足の裏が痛い。
「いった~! めちゃくちゃ痛いです。そこ」
半べそをかきながら、ユキミは琥太郎に訴えた。
「ここですか? ここは胃腸のツボですね。ちょっと胃腸が疲れてるのかな? 甘いものとか冷たいものとか結構お好きですか?」
「好きです~」
ユキミは眉間にグッと皺を寄せて応える。その答えを聞くや否や、琥太郎はにっこり笑った。
「ちょっと控えたほうがいいかもしれないですね~」
優しく、諭すような口ぶりで琥太郎は頷く。
「無理です~」
ユキミが白い歯を見せながら満面の笑みでそう答えると、琥太郎はチラリとユキミに一瞥をくれてから、ググッとツボを押した。
「あいたたたたたっ!」
「ほら~、白雪さん、控えたほうがいいですって。最初のヒアリングで、痩せたいから足ツボマッサージしたいって言ってたじゃないですか。足ツボだけじゃ、痩せるの難しいですよ」
顔の広いケイキの紹介でユキミが訪れたマッサージ店は、雑居ビルの中の一室にあった。カーテンで仕切られた個室には甘い香りのアロマが焚かれている。室内は全体的に南国チックで女子が好きそうな空間。清潔な茶色の落ち着いたシーツに、茶色いカーテンと茶色のタオル。暖色系のライトがベッドの下から部屋を照らしている。観葉植物に、とうでできた籠。籠の中には、いろいろな種類のオイルが入っており、客は好きなオイルを選ぶことができた。
ユキミは複数あるオイルの中から、柑橘系のオイルを選んだ。
「美味しそうな匂いがする~」
すんと匂いを嗅いだ瞬間にユキミがほわっと顔を緩めて言うと、琥太郎は優しく笑った。
「白雪さん、食いしん坊なんですね。かわいいなぁ」
ユキミが恋に落ちた瞬間だった。
かわいいなんて簡単に言わないでほしい。私みたいに恋愛に耐性がない女の子は、イケメンに微笑まれただけでも心臓を鷲掴みにされるのに、かわいいなんて言われたら簡単に落ちちゃうんだ。心臓だけでなく、是非とも胸を鷲掴みにしてほしい、なんてことをユキミは思ったが、流石のユキミもそれは口には出さない。
それより、イケメンマッサージ師がいるマッサージ店を紹介してくれたケイキにお礼をしないといけないな、とユキミは思った。イケメンに癒されながら、体の疲れも取れる。こんな一石二鳥な場所をユキミは他に知らなかった。
実家の花屋で働いているケイキの顔は広い。いろんなところに顔を出しては、そこで友人を作っていく。琥太郎が勤めるマッサージ店にもケイキは出入りしているらしく、「運動が苦手なユキミだったら、マッサージ系のほうがいいんじゃない? 紹介するよ」と紹介してもらった。予約はケイキがしてくれて、水曜日の仕事帰りに寄ることにした。まさか体を癒して貰いにきて、心まで癒やされるなんてユキミは想像もしていなかった。
大濠公園での5分程度のジョギングを終えた後、ケイキはユキミにマッサージ店を紹介すると言いつつ、その時、一つだけ忠告があるからとユキミに耳打ちをした。
「コタローはめちゃくちゃいいやつやしイケメンやけど、ちょっと問題ありやけん、好きになっちゃいかんよ。あいつは自分大好きやし、女の子も大好きやけん、かわいいとかもすぐ言っちゃうタイプ。顔もいいし優しいけん、いろんな女の子にモテると。女の子が大好きやけん来るもの拒まず。好きになっても本気にはならんタイプやけん、ユキミは好きになったらいかんよ。見るだけね。ユキミにはちゃんと恋愛して欲しいし。足のむくみを取ってもらって、ダイエットしにいくだけやけんね」
ユキミはケイキの話をコクコクと頷きながら聞いていた。「わかってる。そんなに簡単に好きにならんって。心配しすぎやろ、ケイキは」と笑った。
「いや、すぐに惚れるやろ、ユキミは」
その時、チョコが目を大きく見開いたのを、ユキミは思い出した。
チョコはよくわかってるな私のこと、とユキミは思う。ケイキもせっかく心配して釘を刺してくれていたのに、このぷにぷにの腕には釘は刺さらなかったようだよ、とユキミはぼんやりと天井を見上げた。
私は女癖の悪さで躊躇する女ではない。正真正銘の面食いなのだ。そんなことで二の足を踏みはしない。私は自分の二の腕を越えていく女。ユキミは左手で右の二の腕をつまんだ。筋肉のないゆとりある二の腕。白くてぷにぷにしてて、すべすべもしている。自分ではそんなに嫌いじゃないんだけど、とユキミは思う。
足ツボマッサージをひとしきり終えると、「ふくらはぎのマッサージをしていきますね~」と琥太郎はオイルを再び手につけて、ユキミのふくらはぎを触った。
琥太郎の手は、大きくて温かかった。骨ばった少しゴツゴツした長い指が、白くて柔らかなユキミのふくらはぎを撫でる。絶妙な力加減にユキミは思わずため息を漏らした。
「やばい~。気持ちいい。足利さん、マッサージめちゃくちゃうまいですね」
ユキミがアホの子のような感想を口に出すと、琥太郎は軽く笑った。
「一応、プロですからね。でも白雪さん、ちょっと血行が悪いですね。冷え性かな? ふくらはぎが冷えてるなぁ」
琥太郎は念入りにユキミのふくらはぎを揉み上げていく。
「そうなんですよ。冷え性なんです。さすがやな~。プロは触っちゃうだけで、わかるんや」
ユキミは琥太郎に感心しながらも、ふくらはぎに神経を全集中させた。なぜなら、気を抜くとすぐに眠ってしまいそうだったからだ。
「僕は、女の子の冷たい肌も好きなんですけど、やっぱり体はあっためておいたほうがいいですね。血行が悪いと痩せにくいですし。次は、いつ来られます? 今日は膝下だけでしたけど、時間があれば全身アロマもやってるし、回数券もありますよ。ケイキの友達だし、ケイキ経由でも直接でも僕を指名してもらって大丈夫なんで」
半分寝かかっていたユキミは、ずずっと涎を啜って、目をギンっと見開いた。
3 白雪美香はビールが飲みたい!
賑やかで楽しげな雰囲気の居酒屋の店内には、いつものメンバーであるユキミとチョコとケイキが掘り炬燵の席に座っている。
テーブルには生ビールのジョッキが3つと、大皿に入ったサラダ、枝豆、タコの唐揚げ、明太子のだし巻き卵が乗っていた。
三人はグラスをカチンと合わせて、「お疲れ~」と声を揃えて言うと、手に持っていたジョッキの生ビールに口をつけた。
ユキミはごくごくと生ビールを飲む。乾ききった喉を苦味のある炭酸が、シュワシュワと泡立ちながら滑り落ちていく。乾きを潤すと同時に満たされない感覚も覚えて、まだ飲みたいという感情が湧いてくる。まるで身体が砂漠の砂になったみたいに、あっという間にビールは体内に吸収された。さっきビールを飲んだ事実などなかったかのような乾きを感じ、ユキミはいくらでもビールが飲めそうな気がする。
「は~。金曜日の夜のビールはなんでこんなにうまいんだか」
ユキミは至福の時間を感じながら、タコの唐揚げを箸でつまむと一口で頬張る。カリッとした醤油味の衣の中に、歯応えのいいぷりっぷりの大ぶりのタコが入っていて、旨みが口の中いっぱいに広がった。
「このタコの唐揚げ、めちゃくちゃうまいっ!」
タコの唐揚げを咀嚼すると、ユキミはジョッキを右手に握り、ビールを流し込んだ。まだ形の残っていたタコの唐揚げは、ユキミの食道にぶつかりながら喉を落ちていく。ビールはユキミの喉をシュワシュワと刺激しながら、たこの唐揚げを追いかけて食道を駆け降りた。口の中にタコの旨みと醤油の甘み、ビールの苦味と衣の脂が広がり、ユキミの口の中は幸福で満たされる。
ダイエットなんか絶対にしたくない。こんなに美味しいものを我慢するようなダイエットは、とユキミはこっそりと心の中で誓う。
「ユキミ、ダイエットは? 痩せたいんじゃなかったっけ?」
ユキミの心を読んだかのように、チョコがすかさず突っ込んだ。チョコは呆れるようにユキミを見つめている。
「食欲抑制のツボ、教えてもらったけん大丈夫! ほら、ここ!」
ユキミはぷにぷにとしたほっぺたの横に付いている耳と顔の付け根部分を、柔らかそうな指でぐっと押した。
耳ツボを押しながらヘラヘラと笑うユキミを見て、チョコはこれは何を言っても無駄かな、と肩をすくめた。チョコもタコの唐揚げを皿から一つ箸でつまんで、頬張った。
「マジでうまいね。これ」
チョコが美味しそうに顔を緩ませる。それを見たケイキも続いて口に放り込んだ。
「うっま」
ケイキの顔も綻んだ。
「タコは低脂質で低カロリーやけん、ダイエットには最適なんやけどな~。揚げちゃったら意味ないっちゃけどね。まあ、うまいからいっか。ユキミがダイエットできないのは、今に始まったことやないし」
チョコも美味しそうにビールを流し込んだ。
ところで……、とケイキが琥太郎のマッサージはどうだったかと、ユキミに尋ねる。
ユキミはにんまりとして、もちろん最高だったと答えた。
チョコが「ユキミは顔がいいとすぐに惚れるけど、今回は大丈夫やったん? イケメンマッサージ師やったんやろ?」と尋ねてきたので、ユキミはヘラっと笑う。
そのユキミの表情を確認すると、チョコとケイキは顔を見合わせ、同時に眉間に皺を寄せた。そして、大きくため息をつく。
「まさか、連絡先とか交換してないよね?」
ケイキがユキミを一瞥する。ユキミは誤魔化すように視線を逸らした。
その様子を見たケイキは再びため息をつくと、ガックリと項垂れる。
「また行きたいなら、僕が予約するのに。またユキミがフラれて泣くのを慰める会を開かんといかんくなるやんか〜。あ~あ」
なんでフラれる前提なんだよ、とユキミは思わなくもない。しかし、ユキミがイケメンに惚れてあっさりフラれるというのは三人にとってド定番の流れなので、ユキミはぐうの音もでなかった。
「そもそもケイキがそんな男がおる店を紹介するのが悪いやん。ユキミが惚れっぽいのは、いつものことやろ? まあ、慰めるのもいつものことやし、今日はユキミが泣かんでいいように、これ以上、ドツボにハマらない対策を練りますかね。すみませ~ん。生二杯とハイボール一つ」
チョコは手を振って店員に声をかけた。
「は~い」と店員は生ビール2杯とハイボールをジョッキで持ってきた。グラスを三つ、どんっとテーブルに置く。
「ユキミには糖質ゼロのハイボールね」
チョコはハイボールが並々注がれたジョッキをでんっとユキミの前に置いた。
「ええ~、もう1杯くらい生ビール飲みたかった~」
眉毛を下げて悲しそうな顔をするユキミに向かって、チョコはふるふると顔を振った。
「またフラれる理由を体型のせいにするからダメです」
チョコはそう言い放つと、自分はキンキンに冷えたジョッキを手に持つ。ジョッキに口をつけグググとジョッキを斜めに持ち上げる。チョコの喉をビールが滑り落ちる音がして、ユキミは思わず喉を鳴らした。
ふぅと一息くと、ユキミは気を取り直してハイボールに口をつけた。
ハイボールも美味いなとユキミは思った。糖質ゼロというところが、安心して飲めるなとも思う。罪悪感が若干薄れていき、心なしか体が軽くなった気がした。しかしこれだけ氷が入っているということは、飲み物の量はビールより少ないのではないかと少しだけ損をしたような気分にもなった。
「青ひげペローさ、チョコから教えてもらってから気になって、ついつい読んじゃうんよね」
「わかる」
ユキミとケイキは顔を見合わせて頷いた。
「やろ? 気になるんよね。ツッコミどころ満載やし。イライラするんやけど、エンタメと思ったらおもろいやん? こんな人リアルに身近におったら嫌やけどさ。そういえば、水曜日更新のヤツ読んだ?」
↓ 第2話予告|アンチョビのブルスケッタ
↓ 第3話予告|鶏胸肉のローストのサラダ
↓ 最終話予告|ゴルゴンゾーラのチーズケーキ
↓ 本編予告|青ひげnote
↓ あとがき|何を書くかは未定だよ