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小説 『瓦解』  加藤猿実

解説

一人の女性の人生をテーマに、間もなく還暦を迎える息子の視点から描いた短編小説。
全12〜14話を予定しています。
オンライン小説投稿サイト「NOVEL DAYS」にも連載中。

(タイトルグラフィックにはMicrosoft bingとAdobe Photoshopの生成AIを利用しています)


第1話 慈しみの子


 あの憂鬱なバレンタインデーがまた巡ってきた。
 ちょうど一年前、些細なことで言い争いになった末に妻は浜松の実家に帰ってしまった。それ以来、彼女はずっと戻って来ない。今年の六月で結婚してちょうど四半世紀だから、もしこの危機を乗り越えることができれば四か月後に僕たちは銀婚式を迎える。元気にしているのか気になって電話しようかとも思ったが、まるでこちらから催促しているように思われたら不本意だ。

 妻の美奈は亡き母に面影が似ていた。
 父から聞かされた母との出会いとまるで同じように、取引先で社長秘書をしていた美奈と出会ったときに僕は運命を感じた。何度か顔を合わせるうちに向こうも好感を持ってくれたようで、出張のお土産を渡したら翌週のバレンタインデーに手作りのチョコレートを手渡してくれた。

 僕には長い間恋人と呼べるような相手がいなかった。
 大学時代にゼミの後輩と付き合ったとき、「母親の話ばかりするマザコン男」と陰で悪口を言っているのを知ってひどく落ち込んだ。結婚するまでに男女の関係になったのはその後輩だけだったが、セックス目的で女性に近づいたりすることはなかったし、ましてや風俗の世話になることなどまっぴらだった。
 と言っても全く女性にもてなかった訳じゃない。バレンタインデーにチョコレートや花を贈られたこともある。でも僕は敢えて付き合い始めるとすぐに母の話をした。大概の女性はそれで僕に愛想を尽かして去っていく。皆が僕のことをマザコンと噂するのは判っていた。
 でも、美奈だけは違った。初めて母の話をした午後、長い話を聞き終えた彼女はこう言った。
「ほんとうに素敵な人だったんですね。私も会ってみたかった」

 美奈はとても社交的で性別を問わず友達も多かった。母とは対照的なその性格に僕は戸惑いを隠せなかった。五年の交際期間を、長いとか、長すぎると言う人もいるかもしれない。それでも生涯のパートナーとして決意を固めるのに、僕にはそれだけの時間が必要だった。
 美奈がプロポーズに応えてくれた日はちょうど母の命日だったから、僕たちは二人で母の墓前に報告した。

 品があって慎ましく、聡明で美しく、人の悪口や噂話が嫌いで、どんな人の言葉にも真剣に耳を傾ける。そして優しくゆっくりと話し始め、けっして人の話を遮らない。
 慈しみの子と書いて慈子しげこ。その名が示すように慈悲深く聖母のような母は、僕にとってかけがえのない理想の女性だった。

 そんな母が亡くなったのは僕が十八の時だった。
 忘れもしない大学入試の合格発表の日。友達との祝いの席から自宅に電話した僕は、電話機に残されていた妹のメッセージで事故のことを知った。
 駆けつけた病院に母の姿はなく、急いで向かった警察の遺体安置所では、父に「見ない方がいい」と制止された。

「お赤飯がないから買ってくるねってスーパーに買い物に行ったまま帰ってこなかった」と妹は言った。「救急車のサイレンの音がずっと耳鳴りのように頭の中から消えないの。私が買いに行けば良かった」
 泣き崩れた妹の背中を摩りながら、僕は僕なりに励ましたつもりだった。
「聡美が悪いんじゃない。僕のせいだ」

 突然左折してきた大型トラックに自転車もろとも母は押し潰されたのだ。通夜の夜、斎場で再会した母の遺体は顔が半分隠されていた。

第2話 病室


 バレンタインデーのその日、僕はブランチのつもりで前夜のカレーの残りを平らげてから、私鉄と地下鉄を乗り継いで父の病院に向かった。僕が着く頃にはちょうど昼食も終わっているはずだ。

 病室では美津子さんが窓際に花を生けていた。
 ベッドサイドにはゴディバのハート型のパッケージが置かれている。美津子さんが持ってきたのか、それとも妹のお土産だろうか?
 父の奥さんは自分の仕事を終えると、さっさと帰り支度を始めた。
「隆史さん、私用事があるからこれで失礼するわ」と言うとバッグから小さなチョコレートを取り出して僕に手渡した。「あとはお願いね。親子水入らずで」
「ありがとうございます」と僕が言い終わらないうちに美津子さんは病室を出て行った。その後ろ姿は、末期がんの夫を見舞いに来たとは思えないほどウキウキして見えた。
「これからボーイフレンドの店に行くんだろ」と父は苦笑した。
「ボーイフレンド?」
「南青山の……あぁ名前が思い出せない。なんとかいうフレンチレストランでソムリエをしてるらしい」
 僕はため息をついた。
「父さんはそれでいいの?」
「ヤキモチ妬いたところでどうせあと数か月の命だしな」
 僕は父の言葉を否定しなかったが、ただ無性に悲しかった。
「母さんとはえらい違いだね」
 今度は父がため息をついた。
「今日は少しゆっくりできるのか?」
 妻との別居を病気の父にはずっと黙っていた。
「美奈は実家だから大丈夫だよ」
「バレンタインデーなのに実家か。喧嘩でもしたのか?」
「いや」僕は嘘をついた。「お父さんの具合があまり良くないらしくて」
 美奈の父親は前立腺がんだったが、手術後に抗がん剤治療を受けた後、再発の可能性は殆どなくなって今は仕事に復帰している。
「そうか。そっちのお父さんも癌だったな。まぁ、私の方が先にくたばりそうだが」
「縁起でもないこと言わないでよ」と僕は言ったが、緩和ケア病棟にいる末期の膵臓がんの父とこうして会話出来る時間はそう長くない。「でも思っていたより元気そうで良かったよ」

 先週末は妹夫婦が娘と孫を連れて父を見舞っていた。
 聡美からは「お父さんは麻酔で朦朧としてて聡司さん——妹の夫で僕の親友の山中聡司——のことをずっと兄さんだと思い込んでいた」と聞いていたから、父がこうしてちゃんと会話出来るのはちょっと意外だった。

「長男のお前にだけ話しておきたいことがあるんだ」と父は言った。「このことは墓場まで持っていこうと思っていたけどね。私が死んだら誰も真実を知る者はいなくなってしまうから」
「もしかして、愛人とか隠し子とかそんな話?」と言って僕は苦笑したが、父は真顔だった。
「いや。お前のお母さん、慈子のことだ」
「母さんのこと?」
「お母さんは……慈子は、自分の少女時代のことを隆史に話したことがあるか?」
 いくら思い返してみても、僕の記憶の中に母の少女時代のエピソードはひとつも無い。僕は静かにかぶりを振った。
「私の話を聞いたら、隆史は驚くだろう。信じてくれないかもしれない。でも、慈子が体験した歴史を忘れてしまったり、風化させてはいけないと最近思うようになったんだ」
「いったいどういうこと?」と尋ねた僕の脳裏にはすでに嫌な予感が渦巻いてた。

第3話 出会い


「実はこの間、慈子がここに来たんだ。とうとうお迎えが来たのかと思ったよ」
 やはり聡美の言うように父の意識は混濁しているのかもしれない。僕は黙って耳を傾けた。
「そのとき慈子は『お父さん、辛いときや苦しいときはもっと隆史さんに頼ってね』って言ったんだ」
 訝しげな僕の表情を父は感じ取ったようだ。
「嘘だと思うだろ? でもそこにあるハート型のチョコレートは慈子が持ってきてくれたんだよ」
「このゴディバ?」と指さしたら父は頷いた。
「最近の幽霊は随分洒落たものを持ってくるんだね」
「あれは幽霊だったのか……記憶が朧で私にもわからないが、でも慈子の気持ちだけは分かった。あいつはお前にほんとうの自分のことを知って欲しいんだ」
 父がこれから語ることはあまり耳にしたくない類いの話かもしれない。
「その話の前にお茶でもどう?」
 僕は立ち上がって父のカップを備え付けの洗面で洗い、見舞客用のカップを並べてティーバッグを入れ、ポットからお湯を注いだ。

 父はお茶を一口啜ると母との出会いの話を始めた。
「慈子との出会いのことは何度か話したことがあったな」
「うん、何度もね」
「慈子は神田の商事会社で秘書をしていた」
「それは知ってる」
「出会ったのは東京オリンピックの年だ」
「1964年だね」
「私の会社はちょうどオリンピックで使う撮影機材を取り扱っていたが、実際にその機材を使うには海外のメーカーの部品が必要だったんだ。ちょうどそのオランダの会社の代理店が慈子の会社だった。年末に初めて訪問して、年明けてから何度も足を運ぶうちに、私はいつも書類を用意してくれる女性が気になり始めた」
「それが母さんだろ」
「物静かで控えめだが、とても聡明で気が利くんだ。私は感心しながら『あの事務員さんは優秀ですね』と言ったら、担当の八代部長が『彼女はうちの秘書ですよ。速記が得意で最近はタイプも熟すようになったから助かってます』と言うんだ。それで小声で『なかなかの美人でしょう?』と耳打ちするから、私は大きく頷いた。そしたらその部長は彼女に聞こえるように『富田君は花婿募集中なんだよね?』と声を掛けたんだ」
 その辺りの話はしっかりしている。今までに何度も聞いた話だが辻褄は合っていた。
「そのあと帰り際に慈子の方から話しかけてきた。『先ほどは失礼しました。部長がおかしなことを申しましたがどうかお気になさらずに』ってね。だから僕は『花婿募集中というのは冗談ですか?』と聞き返したら、否定もせずにしばらく俯いていた。それで僕はこう言った。『ここにも花嫁募集中の独身男が一人、あなたの前に立ってますけれど』って。そしたら慈子は顔を真っ赤にしてるんだ。私はまずいことを言ったと思って話題を逸らせた。『富田さんの出身は関西。品が良いから京都、いや神戸あたりかな? お父さんはお医者さんでしょ』ってね」
 その話は初めて聞いた。
「神戸で小児科医をしていたんだよね。父さんはそれを知ってたの?」
「いや。全くの出任せだった。関西訛りには気づいていたけど、賢そうな子だったからきっと親は医者か学者に違いないと想像しただけだ。でもそれが大当たりだったんだよ」
 父は照れくさそうに笑った。
「慈子は『どうして判るんですか?』って目を潤ませていた。『父は三宮で小児科の医者をしていました。でも私が二歳の時に空襲で……』って。そこに八代部長が通りかかった。『若い男女で早速逢い引きかね? でも泣かしちゃまずいですな』と言われてまた応接室に通されたんだ」
「その部長が仲人さん?」
「そういうことだ」
 僕は内心ほっとしていた。こんな話なら恐れることもなかった。
「その後はトントン拍子に進んでね。慈子には身寄りが無かったから、八代さんが親代わりになっていた。あとで判ったことだが、社長の姪御さんが短大で秘書の勉強をしてその年に入社することが決まっていた。だから二人が職場でぶつからないように八代さんは慈子の花婿を探していたんだ」

 父はハート型のケースを開くと、その中にあるチョコレートを指さした。
「どれでも好きなのを食べたらいい。私はもう味が分からないんだ」
「幽霊がくれたチョコレートなら僕も味は分からないかもしれないな」
 僕のブラックジョークのような返答に父は無反応だった。
「ありがとう。いただきます」と言って僕は一つ口に運んだ。「美味い。さすがゴディバだね」
 父も一つ口に入れたが、神妙な顔をしながら噛み砕くとすぐにお茶で流し込んだ。

 そして父はしっかりした口調で一気に語り始めた。

第4話 失踪


 交際を始めたのは二月だったが、オリンピックの開催を目前に控えていたから、仕事が忙しくてデートらしいデートもなかなか出来なかった。婚約前に二人で逢ったのは、仕事を終えた後に映画を観に行った夜と、日曜日に顧客に招待されたクラシックのコンサートに行ったくらいだったかな。

 それでも、四月には私は結婚の意志を固めていた。もし慈子を逃したら一生後悔すると思ったんだ。銀座の和光で指輪を買って五月の連休の最初の日にプロポーズした。翌日、二人で八代さんのお宅に挨拶に行って結婚式の日取りも決めた。慈子は入社したばかりの新人に席を譲って六月いっぱいで退職することになった。寿退社という言葉はまだなかったかもしれないが、あの時代は結婚イコール退職だったからね。

 結婚式は七月二十六日の大安の日だった。
 私の両親が高松から上京してきて、明治神宮で式を挙げたんだ。ウェディングドレスを着たくないかって慈子に尋ねたら、「親のいない私にとっては式が挙げられるだけでも勿体ないです」って言ったんだ。だから写真は和装で文金高島田なんだよ。あの時、私の方から「君のウエディングドレス姿を見たい」って言えば良かったと随分後になって後悔したけどね。

 慈子には身寄りがなかったから披露宴は実家がある高松で、私の親族だけを招いて行うことになった。と言ってもオリンピック直前で仕事が忙しくて長い休みを取ることなど出来なかったから、式から一月近く経った八月下旬に新婚旅行を兼ねて四泊四日の旅に出た。三泊四日じゃない、四泊四日だ。
 新幹線が開通するのは十月だったから、私たちは金曜日の夕方に東京駅から夜行列車に乗り、列車を乗り継いで連絡線で四国に渡った。今ほどではないが、その年は酷暑と言われたほど暑かったし、まだ冷房が完備されていないところも沢山あったから、高松に着いたときは二人とも汗だくだった。
 私たちは実家で朝風呂を浴びて、午後から高松見物をした後、浴衣に着替えて徳島に向かった。台風が近づいていて天気もあまり良くなかったが、阿波踊りを見たいと言った慈子のリクエストに応えたんだ。
 阿波踊りのために特設された競演場はものすごい見物客でね。互いの手をしっかり握っていないと逸れそうなほどだった。8ミリカメラを持って行ったが、とても撮影する余裕などなかったな。とにかく熱気がすごかったよ。帰りもすごい混雑で電車になかなか乗れなくて、やっと乗れた列車は高松行きの最終だった。

 披露宴は日曜日だった。仏滅だったが、式は大安に済ませているから良いだろうってことで、その日に決めた。でも、なんで仏滅なんだってブツブツ言ってた親戚は何人かいたな(笑)。
 会場は地元ではちょっと知られた宴会場だったけど、集まったのは二十人、いや三十人くらいだったかな? 慈子は美人だし気も利くから、親戚のとくに伯父さんたちは皆んな上機嫌で、私も鼻が高かった。
 辰彦君が別嬪さんを嫁にしたって喜んでくれたのはいいんだけど、今考えるとみんな飲み過ぎだったね。披露宴が終わった後に屋島観光を予定していたけど、親戚がなかなか帰らなくてね。そう、みんな慈子に夢中だったんだ。
 屋島には母方の叔父が車で連れて行ってくれたけど、もう辺りはすっかり暗くなっていた。叔父もかなり飲んでたから今じゃ許されない酒気帯び運転だな。あの頃はみんな普通にやってたことだけどね。

 月曜日に帰る予定だったが、台風が来ていてね。もしかしたら連絡船が出港できないかもしれないと心配した両親が、もう一泊していくように強く勧めたんだ。火曜日から出社の予定だったからすぐに職場にお詫びの電話を入れた。結局、あの日の連絡船は出港したのかな?
 とにかく私たちは予定を一日遅らせて、火曜日の朝に菩提寺で先祖の墓前に報告して、昼前の宇高連絡船に乗った。神戸発の寝台特急には十分間に合う時間だったんだよ。でもその船に乗ったことが命運を分けたんだ。
 連絡船の中で、慈子のことを遠くからじっと見つめている女性がいた。ちょっと水商売風の派手な服装をした人だった。ふと気づいたら、付け睫毛で目の周りを真っ黒にしたその女性が目の前に立っていた。
「あんた新地のみえやにおったな? おしげちゃんや」確かにそう言った。「な? おしげちゃんやろ?」
 慈子は応えなかった。
「人違いじゃないですか?」と私が代わりに応えた。「妻は三宮の医者の娘ですよ」

 それから慈子の様子があきらかにおかしくなった。
「お化粧を直してきます」と席を立ったまま、連絡船が宇野に着くまで戻ってこなかった。荷物も何もかも全てをそこに残したまま慈子は姿を消した。

第5話 捜索


 係員に頼んで連絡船の中を隈無く探して貰ったが、結局慈子は見つからなかった。下船した乗客から回収した切符の数に不足はなかったから慈子は既に船を下りていたんだ。

 私は手帳に『新地のみえや』と書いた。『しんち』と言えば大阪の北新地のことだろうと感じていた。
 宇野駅から会社に電話をかけて上司に事情を説明したが、翌日に大事な商談を控えていた私には帰る以外に選択の余地はなかった。行方不明になったのが宇野駅だったので地元の警察に捜索願を出して、そのまま東京に戻った。

 警察には何度か連絡を取ったが、手がかりは掴めそうになかった。
 新婚旅行の旅先で新婦が行方不明になったという私を憐れんで上司も気遣ってくれたが、オリンピック開催までの職場はまるで戦場で、とても個人の事情を言い出せるような余裕はなかったんだ。当時は土曜日は休みじゃなかったし、日曜も殆ど仕事に出ていたからね。

 東京オリンピックが無事に終わり、会社から臨時のボーナスも出て、やっと私は十一月の平日に二日間休みを取ることができた。

 開通したばかりの新幹線で大阪に向かい、先ず初めに慈子の除籍謄本を取ることから始めた。
 亡くなった育ての親の富田英作は河内の、今で言う東大阪の工場経営者だということは聞いていた。しかし河内市役所で謄本を取るまで、富田の養女になる前の慈子の籍のことは知らなかった。富田の籍に移ったのは両親が亡くなった直後ではなく、昭和三十三年になっていた。慈子は十五歳になるその年まで北区曽根崎新地の中村美枝の養子になっていた。そしてその養母は慈子が戸籍を移す直前に亡くなっている。その間に北の新地で慈子の身の上に何かが起きていたのだろう。夫の私にも知られたくない何かが。
 次に北区の区役所で除籍謄本を確認すると、慈子は終戦直後の昭和二十一年に中村美枝の養女になっていたが、中村美枝は井上美佐、つまり慈子の母親の実の姉だった。

 『新地のみえや』は北の新地で伯母の中村美枝が経営していた何かの店の名に違いない。役所の窓口で北新地の店前が分かるか尋ねてみたところ、戸籍担当の係員は面倒くさそうに言った。
「電話帳で調べてみたらどうですか?」
 役所にあった電話帳で早速調べてみた。しかし、その地域に『みえのや』は見つかったが、『みえや』の読みの店はなかった。店主が六年前に亡くなっていれば、店がなくなっていてもおかしくはない。戸籍係では埒があかない。地域の商店などを管轄する係に頼んで、昭和三十年当時の北新地の地図を見せてもらったところ、そこに『みえや』の名前を見つけた。私は手帳に地図を書き写した。

 北新地は歩いて行ける距離だったから、すぐにその場所に向かった。
 辺りは飲み屋街といった雰囲気で、まだ開店前の店が多かったが、かつて『みえや』があった場所は『憩』という名の喫茶店になっていた。店に入るとカウンターに腰掛けて先ずコーヒーを頼み、マスターらしい中年の男性に聞いてみた。
「ここは以前『みえや』って名前だったようですが、どんな店だったかご存じですか?」
 マスターはすぐに答えなかった。タバコに火を付けて深く煙を吐くと、私を睨み付けるように言った。
「あんたは新聞記者なん? 昔のことはよう分からん。三年前に高槻から越してきたんやから」
 少し険悪な雰囲気になったので私は早々に店を出た。
 時計は五時を回っていた。呼び込みの若い衆が道に立ち始め、辺りは急に活気を帯びてきた。喫茶店から五十メートルほど離れたところにたばこ屋があった。私はハイライトを一箱買って、店のおかみさんに尋ねてみた。
「この先の角に『みえや』ってあったらしいけど、どんな店やったん?」
 たぶんまだ六十代くらいだったと思うけど、もうお婆さんって感じだったな。そのおかみさんは知ってたよ。
「美枝さんはほんまに気の毒やった」
「おばちゃん知ってるんや?」
「娘さんと二人でこまな料理屋をやっとった」
「その娘さん、慈子って名前やない?」
「なんや、知ってるんか。そうそう、おしげちゃんやった」
「美枝さんは気の毒って、いったい何があったん?」
「あんたは知らんのやな。強盗に襲われて美枝さんは殺されてんで。あの頃は空き巣が多かったけど、店に入った泥棒を捕まえようとして、持ってた刺身包丁で逆に刺されてもうたんやからね」
 慈子の伯母が殺されたと知って、私は絶句した。
「あれからおしげちゃんはどうなったん? 美枝さん亡くなって、身寄りが無いから河内の富田っておっちゃんが連れて行ったって噂やったけど。あんた知ってるんやろ?」
 自分の妻だとはなぜか言い出せなかった。
「その富田さんも随分前に亡くなって、慈子さんはこないだまで東京で働いてたんやけど、急に行方が判らんようになってな。ほんでここに帰って来たんじゃないかと思って」
「この辺りでは聞かへんね。ここもだいぶ変わってしもたしね。おしげちゃん、こまい頃から別嬪さんやったからずいぶん綺麗になったんやろうけど……」
「ありがとう」と礼を言って立ち去ろうとしたら尋ねられた。
「あんたはここの人とはちゃうやろ?」
「今は東京ですけど、生まれは高松です」
「讃岐の人かぁ。あんたもおしげちゃんにぞっこんなんやね。顔見ればわかるわ」

 あんたも——と言われたことが心に引っかかった。慈子は「今までにボーイフレンドのような相手は一人もいなかった」と言ったが、それは嘘だったのだろうか?
 少なくとも、この北新地には私の知らない慈子がいた——それだけは確かだった。

 その晩は慈子の写真を持って朝方近くまで辺りの店を片っ端から訪ねて回った。しかし、誰も慈子を知る者はいなかった。早朝に梅田のホテルで仮眠を取って、翌日も北新地に足を運んだが、店はみんな閉まっていた。たばこ屋の前も通りかかったが、旦那さんらしい人が座っていたから声も掛けなかった。
 私は肩を落として帰りの新幹線に乗った。

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加藤 猿実(Sarumi Kato)
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