奇想ノ六「イシキリとイスキリ〜古代ユダヤと物部氏を結んだ信仰の旅」
大阪東部、もう生駒山麓に接するような山裾に、「石切劔箭(いしきりつるぎや)神社」という古社があることをご存知でしょうか。今でも多くの参拝者が訪れ、また地元や関西一円で信奉されている信仰が息づいている社です。この古社に訪れたとき、天啓のようにある奇想が浮かびました。「ここは古代ユダヤの渡来人と初期物部氏が習合して力を得た場所ではないのか」という奇想です。さてさてこの奇想が成り立つのかどうか、時間を遡って冒険してみたと思います。
今もお百度参りが実践される饒速日(ニギハヤヒ)の社
石切劔箭神社(通称「石切(イシキリ)さん」)は本当に平地と山麓の境界線のような場所にあります。平地側にある最寄駅「新石切(近鉄けいはんな線)」からは平坦な道を歩いてから少し緩やかな坂道を登って到ります。逆に山側にある最寄駅「石切(近鉄奈良線)」からは、かなり急な坂道を下った先にこの社があります。この石切駅から南を望むと大阪平野が一望に見渡せ、あべのハルカスや大阪城、大阪湾までが視界にあります。まさに大阪や河内が一望できる景勝地なのです。
古代、まだ大阪平野が形成される前の弥生から古墳時代には、きっと巨大な河内湖(大阪湾の前身)が見渡せ、海を旅する一団にとっては瀬戸内海東端にある航海の終着点に思えたことでしょう。今でこそ平野と山麓の境界線ですが、古の時代には縄文海進と弥生海退が繰り返された、渚と山がせめぎ合う場所だったのです。遥か万里の波頭を超えて旅してき来た人々には、約束の地に思えたかもしれません。
石切劔箭神社の主祭神は謎の神といわれている「饒速日命(ニギハヤヒノミコト)」です。正式表記(和名)は「天照国照彦火明櫛玉饒速日命」といいます。なんだかとっても不思議な名前で、多くの神の名(天照大神や火明命、櫛玉命など)を合体したような名前です。この饒速日命は物部氏の始祖とされる神で、記紀には神武東征の前に天照大神の命令で天鳥船で大和に降臨し、大和(あるいは日本)を統治していた神であるとされています。そして神武が東征してくると、戦うことなく(部下の長髄彦は大和防衛軍として奮戦しますが)神武に大和の統治権を譲っています。
なんだかとっても不思議な話ではありませんか。天照大神も二柱の神(饒速日命と神武)に大和統治という同じ役目を与えています。また戦わずに国を譲り渡した話は、まるで出雲神話に出てくる「大国主命の国譲り」の話にそっくりです。先ほどの名前の話を振り返ると「國照」は「大国主」とも思えます。饒速日命は古代豪族「物部氏」の始祖とされていますが、大和にある石上神宮はこの饒速日命を祀る神社で物部氏の氏社でもあるのです。そしてこの石切劔箭神社もまた饒速日命を祀る物部氏の社とされています。
河内は物部氏の本貫地か吉備国の植民地か
さてさて、記録のない時代(文字のない時代)の話は想像(奇想)するしかないのですが、弥生時代後期〜古墳時代はこの石切劔箭神社のある河内は物部氏の本貫地(氏族の発祥地、あるいは主な勢力範囲)とされています。河内には肩野物部氏や穂積氏などの多くの物部支族もいました。この河内(特に大和川南側、八尾地域)には不思議な遺跡があります。中田遺跡、東山遺跡です。弥生〜古墳時代の遺跡では、出土物で「いつ」、「誰が」そこにいたのかが想像できます。この中田・東山遺跡からは畿内地方とは縁のない土器が大量に出土しているのです。それは「吉備式土器」です。古代吉備国(現在の岡山県および兵庫西部)以外で吉備式土器がこれほど大量に出土したことはありません。そうしたことから考えられるのは2つの可能性です。1)吉備と河内には太い交易ルートがあった。2)吉備国から大量に河内に移住(あるいは占領)していた。どちらが正解かはわかりませんが、吉備式土器は他の畿内地方で大量出土していないこと考えると、流通によるのではないかもしれません。きっと吉備からの移住か征服があったのでしょう。
記紀神話に面白い話があります。東征に臨んだ神武は古代河内湖の東、白肩津で大和を守る長髄彦軍に敗れ兄五瀬彦命を失います。そして大きく紀伊半島を迂回しながら進み、熊野から上陸して再び大和を目指します。このとき白肩津で敗れた神武軍は大和川河口あたり(河内南部、八尾地域)で停泊し軍勢を整えようとします。神武は長髄彦との戦いの前に、吉備の高島宮に3〜8年ものあまり滞留して軍勢を整えたと記紀にはあります。吉備での戦いの記述はないので、吉備とは平和的同盟か協力があったのでしょう。そして遠く九州の日向からやって来た神武にとって、河内から最も近い同盟国は吉備なのです。ここで私は奇想しました。神武軍は軍勢を再整備するために、吉備からの兵員の大量援助を請うたのではないのかと。それに応えた吉備からは物部氏を主力とする大軍勢を河内に送ったのではないのでしょうか。そして物部の大軍勢(それに随伴する民)の一部は河内に留まり、植民地を形成したのかもしれません。それが中田、東山遺跡で吉備式土器が大量出土する理由ではないのかと奇想しました。
中田、東山遺跡から出土する土器には、素材が吉備の土を使ったものから河内の土で吉備式をまねた土器まで様々出土しています。ということは、単に流通というよりも吉備文化(それを伝える人)そのものが河内にいたと思われます。神武東征だけが原因ではないかもしれませんが、吉備と河内には人的交流が多くあったのでしょう。そしてその中心には物部氏がいたのではないでしょうか。
大和に神武(ヤマト)政権が誕生すると、それに協力した物部氏も本国吉備ではなく、大和に近い河内を新しい本貫地としたのだと思えます。いざとなれば河内と吉備は海の道(瀬戸内海)で繋がっています。援助を請うにも撤退するにも絶好の立地だったのです。こうして河内は小吉備国となりました。そして物部氏とともに饒速日命も河内に祀られ、石切劔箭神社で信仰されるようになったのです。
物部氏とはどこからやって来た一族なのか
さて私の奇想はここで終わりではありません。さらにその先にもっと大きな奇想が控えています。それは物部氏がどこからやって来た一族かという点です。私の奇想では物部氏は吉備からやって来た神武軍への増援だと考えています。ですが吉備においてあまり物部氏の痕跡は大きくありません。吉備では別名で呼ばれていたのかもしれません。物部氏はヤマト政権下での名前なのでしょう。そもそも物部氏は吉備のどのあたりにいたのでしょうか。一つ痕跡があります。今の岡山県赤磐市(県東部)に「石上布都御魂神社」という古社があります。この社は記紀にも記述があり、八岐大蛇を倒すために素戔嗚命が使った天羽々斬剣(最初の表記は十拳剣)」が一時期この社に保管され、崇神天皇の命により大和の石上神宮に移されたと記されているのです。石上神宮は物部氏の氏社ですから、この石上布都御魂神社も物部氏の社なのです。現在もこの社の宮司家は「物部」を名乗られています。また神社への寄進者にも物部の名前が多くあります。
時代が神武天皇時代ではなく崇神天皇時代とはいえ、岡山東部にはまだ物部氏の本貫地があったのでしょう。ここで少し視野を広くすると、すぐ隣の兵庫県西部の赤穂市坂越に大辟神社という古社があります。この大辟神社は秦氏を祀る神社です。主祭神は秦河勝、秦氏の族長の一人で聖徳太子のブレーとして有名です。京都の広隆寺はこの秦河勝が建立した寺です。広隆寺にある国宝第一号の弥勒菩薩半跏思惟像の左右には聖徳太子少年立像と、秦河勝夫妻坐像が置かれています。聖徳太子と河勝の繋がりの強さを感じます。この広隆寺の提灯には菊花紋が記されているのですが、その菊花の中心には「太」の文字が記されています。まるで朝廷ではなく太子にのみ忠誠を尽くす河勝の意志の現れのようです。
ご存知のように秦氏は渡来氏族です。出自は秦王朝の末裔とか大月氏国の弓月君、あるいは遠くイスラエルの失われた十支族の一部ともいわれる謎多き渡来氏族なのです。秦河勝がこの大辟神社に祀られているのは、聖徳太子死後の政変で朝廷を追われて坂越に逃避して来たからと社伝は語ります。逃避先に坂越を選ぶということは、当然この地が秦氏の勢力地だったからでしょう。つまり兵庫西部は渡来人の地なのです。そしてすぐ隣の岡山東部は物部氏の勢力地です(古代においては両地とも吉備国です)。この両氏族は似たところがあります、秦氏は酒作り、織物などの技術をもたらし、物部氏は武器や工具(鍬や鋤など)など鉄製品を作る「物作りの一族(部)」なのです。両氏ともにまだ日本にない新技術を携えた氏族なのです。それを証明する記録があります。先の石上布都御魂神社のある地は古代には赤坂と呼ばれていたのですが、記録によると赤坂の租庸調(古代の税金)は「鉄の鍬や鋤」を献ずることでした。物部氏の勢力地はまさに鉄製品の供給地だったのです。だとしたら物部氏は秦氏同様に吉備国に来た渡来氏族(親族関係もあったかもしれません)で、すぐ隣同志に本拠地を置いたのではないでしょうか。この辺りには渡来人が住み着きやすい条件があったのかもしれません。
武器と軍事の物部氏、ルーツは桃太郎の鬼「温羅」の力?
私の奇想は、物部氏が吉備に住み着いた新技術を持った渡来氏族ではないのかという所まで来ました。しかしここでふと考えるに、吉備には渡来氏族の伝承や痕跡は多くはありません。いえ、大変大きな別の形の痕跡がありました。それは桃太郎伝説です。桃太郎のお話はご存知の通り、鬼ヶ島の鬼を桃太郎が退治する話です。この話にはモデルがあります。それは吉備国で悪さをする鬼「温羅(ウラまたはオンラ)」を大和から来た皇子吉備津彦命が、大変苦戦の末に退治する話(事実?)です。温羅はとても強かった(=強大な軍事力を持っていた)のです。この鬼の温羅は百済(あるいは出雲)からきた王子で、吉備に製鉄技術を伝えたと言われています。百済は古代日本への最大の鉄輸出国ですし、出雲は産鉄の国です。温羅はどうやら鉄の国からやってきた鬼(渡来人)のようです。事実、温羅の支配した岡山県総社市あたりには実に多くの製鉄炉遺跡が出土しています。つまり渡来人温羅一族は、製鉄と巨大な軍事力を持つ氏族だったのです。
そう考えると、なぜかこの温羅一族と物部氏が重なって見えました。「吉備に住み、鉄を作り、軍事力を持つ渡来氏族」である物部氏は、この桃太郎伝説の鬼の一族「温羅」と同族に思えてきます。
物部氏が渡来氏族で神武の軍に加わったと思える傍証がもうひとつあります。物部氏の祖神は饒速日命と冒頭で語りましたが、その和名「天照国照彦火明櫛玉饒速日命」には「彦火明」という箇所があります。これは記紀にも登場する神「天火明命(アメノホアカリノミコト)」のことであるといわれます。歴史研究者にも饒速日命=天火明命が定説になっています。この天火明命を始祖に持つ丹後(京都府宮津市)の元伊勢籠(こも)神社の宮司家・海部(あまべ)氏の系図が公開され国宝に指定されています(海部氏系図)。その系図によると、天火明命を祖とした系図の第4代に「倭宿禰(やまとのすくね)」という不思議な人物が記されています。籠神社にも第4代倭宿禰の像があるのですが、その姿は亀の背に持った人物像です。まるでアニメ「ドラゴンボール」に出てくる亀仙人のようです。
この「倭宿禰」像とほぼよく似た像ががあります。それは神戸市東灘区にある保久良神社にある「椎根津彦命(シイネツヒコノミコト)」像です。椎根津彦命は記紀にも登場する神で、神武が東征途上で吉備高島宮から出発しようとしたとき、吉備穴海で神武一行の前に突如現れます。その姿が亀に乗って竿をさした姿でした。そして神武一行に加わり東征では軍師として多大な働きをします。その功でヤマト政権誕生後に椎根津彦命は倭国造(やまとのくにのみやつこ)に任じられます。
同じ亀の背に乗った椎根津彦(後に倭国造)と倭宿禰、この二人はほぼ同一人物ではないのかと思えます。そして海部氏系図上では天火明命の第4代とされていますが、本当は天火明命自身が椎根津彦命と同一人物なのだとも思えます。そう考えると椎根津彦命=天火明命=饒速日命という図式が成り立ち、饒速日命(物部氏)自身が椎根津彦命が行ったように吉備より現れて神武東征軍に加わったと解釈できます。まるで先述の「神武東征の増援軍として吉備から河内に向かい合流した物部の軍勢」というという私の奇想に実によく合致します。
物部氏が古代ユダヤの民と習合した痕跡?
ここまでで、私は「物部氏は古代の渡来氏族で、鉄と軍事力で神武東征に協力し、ヤマト政権の中枢に入った」という奇想にたどり着きました。しかしもう一つの奇想である「古代ユダヤ民族と習合したのではないか」という説明が達成されていません。
古代ユダヤ民族といってもいつのユダヤ人と交わったのでしょうか。ユダヤの歴史を見るといくつかの可能性が見えます。まず古代アッシリアによりイスラエル王国が滅ぼされたとき(前722年、このとき失われた十氏族が生まれます)、次に新バビロニアにより「バビロン捕囚」があったとき(前586年〜538年)、そして古代ローマにより占領され属州となったとき(前1世紀頃、キリストの磔刑がありました)。どのときもユダヤ人は東へ東へと逃避して、新たな国を作ろうとしました。それはユダヤの教えの中に「東方に救いのメシアが出現する」という考えが潜在していたからです。こうして「流亡を続けるユダヤ人の一部が秦氏になった」といわれる伝説が生まれたのです。私は秦氏自体が全てユダヤ人であるとは考えていませんが、秦氏もまた日本渡来前後にこの古代ユダヤの流民と合流していたのではないかと考えます。事実、秦氏の事績のなかにはユダヤの痕跡数多くあります。先に広隆寺での聖徳太子と秦河勝の密着をぶりを示しましたが、聖徳太子にはユダヤ的、キリスト教的な伝説プロデユースが数多くなされています。太子が馬小屋で生まれたので「厩戸皇子」と呼ばれたり、生まれたとに百済の博士が登場していることなどです。これはほぼキリストの誕生譚と同じです(馬小屋で生まれたイエスのもとに、東方の三博士が祝福に訪れました)。これらはキリスト教の知識のある秦氏によりなされたに違いありません。
そして同じように、渡来氏族「物部氏」もまた古代ユダヤ人と習合していたのではないのかと思います。物部氏は「軍事と製鉄の一族」と書きましたが、実はもう一つの顔があるのです。それは宗教(神道)の擁護者という顔です。もちろんヤマト朝廷における宗教主催者は大王(天皇)であり皇室です。しかしその祭祀の中には「物部神道」といわれる物部氏の宗教が色濃く取り入れられているのです。日本神道は天皇とその神々を中心に据えていますが、その祭祀方法については多くを物部氏のものを採用しているのです。物部氏はその祭祀方法と呪術を駆使することで、朝廷の中で重きをなしていったのです。ですから飛鳥時代の物部守屋は蘇我馬子の押し進める「仏教崇拝」に強硬に反対をしたのです。それは物部氏の力の立脚地である「神道」を「仏教」に書き換えられようとされたからです。
皇室の祖神を祀る伊勢神宮に多くのユダヤの祭祀と共通する部分があるといわれています。伊勢の灯籠にユダヤの紋(ダビデ紋)である六芒星が刻んであったり、また神輿はユダヤの聖櫃(アーク)と同じであるとか。これらは日ユ同祖論の根拠にもされています。
しかしこれらは皇室というより物部氏の祭祀方法を朝廷が採用したからではないのでしょうか。物部氏の中にもユダヤの流民が習合していたからに他なりません。「ユダヤ流民➕物部氏(物部神道)→朝廷(又は皇室)の祭祀」となっていたのです。ユダヤの聖櫃(アーク)の中には3種類の宝が入っているといわれています。1)モーゼの十戒の石板 2)アロンの杖 3)マナの壺です。皇室にも皇統を証明する三種の神器があります。
物部神道がどういうものかは説明が難しいのですが、石上神宮には「十種神宝(とくさのかんだから)と呼ばれる宝物や、「十善戒」という教えがあります(ちょっとモーゼの十戒に似ています)。十種神宝とは数種の剣と玉と鏡です。このエッセンスが皇室の三種の神器(剣、勾玉、鏡)に転化したとも考えられます。また「ひふみ祝詞」という死者蘇生の言霊が伝わるといいます。まさに呪術の極みです。これは布留の言といわれ「ふるべゆらゆらとふるべ」(布留部由良由良止布留部)を何度も唱えます。本来は饒速日命降臨の際に唱える言霊だといいます。
この言葉、聞いたことがあるのではないでしょうか。大人気の漫画「呪術廻戦」の中で伏黒恵が領域展開するときの呪文です(そういえば伏黒が使う式神を「十種影法師」と呼んでいました。「十種神宝」からのインスパイヤなのでしょう)。
ユダヤ民族は西洋魔術の原点です。カバラの法やソロモン王の叡智と呼ばれ魔術がありました。奇しくも日本の魔術、陰陽道の宗家「賀茂氏(安倍晴明の師匠の家)」は、ユダヤの末裔との伝説がある秦氏の支族なのです。そうすると、物部氏と習合したユダヤの流民もまた、多くの呪術や魔術を保持していても不思議ではありません。呪術や多くの宗教儀式を朝廷に献じる物部神道には、色濃くユダヤの痕跡が見え隠れしているのです。
キリスト来訪伝説と弟「イスキリ」が示す遥かな旅路
青森県の新郷村「戸来(へらい)」地区に「キリストの墓」があるという都市伝説があります。「戸来」という地名も「ヘブライ」に由来するといわれます。この話は明治の宗教家「竹内巨麿(きょまろ)」が自家が持つ古文書「竹内文書」にキリストが日本に来訪し死んだと書かれていると主張し、新郷村を調査したところキリストの墓を発見したのだと伝わっています。竹内巨麿は戦前に何度も政府の弾圧を受け、また「竹内文書」も戦災で焼失したといわれ、その真偽は今もってわかっていません。
キリスト来訪の真偽はこの奇想のテーマではありません。しかしローマに迫害された原初キリスト教徒(ユダヤの流民)が、弾圧を逃れて東へ旅立ったとしても不思議ではないでしょう。キリスト自身が来訪したかどうかはともかく、多くのユダヤ流民が東への長い旅に出たかもしれません。イエス・キリストはゴルゴダの丘でローマに磔刑に遭って死んだとされています。しかし別の伝説もあります。実は磔刑に遭って死んだのはイエスの弟「イスキリ」で、イエスは生きのびたのだともいいます。また別の伝説ではイエスは死後復活しますが、その後天上に登ります。残された教徒はイエスの弟「イスキリ」に率いてられて、安息の地に旅立ったともいいます。この辺りの伝説を上手く活用したのが小説や映画で大ヒットした『ダビンチコード』です。どちらにしても「イスキリ」という人物が深く関わっています。そう考えると長い長い東への旅の中で、イエス同様に引率者である「イスキリ」に対する尊崇の念や依存も生まれたかもしれません。いつしかイスキリの寿命が尽きたとき、次のイスキリ(引率者)が選ばれても不思議ではないでしょう、「イスキリ」はいつしか人の名から引率者の役職名になっていったのです。そうやってユダヤからの長い長い東への旅路を乗り越えたのだと思います。
「ここが東の終着点か」と思える日本に到着し、ユダヤ流民の一部は秦氏に、一部は吉備の鬼「温羅」の一族と習合しました。そしてその中から神武の東征に付き従う一団が誕生します。後の世に「物部氏」と呼ばれる一団です。これは彼らにとっても賭けだったかもしれません。やっとたどり着いた東方のメシアの地で、また新たな旅(神武東征)に賭けたのです。もしかしたらユダヤの流民にとって神武は「東方のメシア」に思えたのかもしれません。そして神武は大和の征服に成功し、鬼の温羅一族とユダヤの流民は征服者側になりました。そして新たな氏族名「物部氏」と、新たな神「饒速日命」の神話を獲得したのです。
石切劔箭神社を訪たとき、こんな奇想が私の中を駆け巡りました。最初は単に「石切(イシキリ)」は「イスキリ」という音に似ているなぁ、という単純な思いからでした。しかし石切劔箭神社の由来を見ると「石切とは、石をも砕く強力な饒速日命の霊験、加護があるから」と記してありました。この神社の近くに石切り場や石加工場があってこの名になったわけではないのです。イエスやその一家は大工だったといわれています。大工というと日本では木工職人や木造建築技術者を想像しますが、古代ユダヤで大工とは「石工や石の建築技術者」のことです。後に生まれる「フリーメーソン」もユダヤの石工職人のギルドが発祥です。そうならばイエスの弟イスキリもまた大工=石工だったのです。石工は文字通り石をも砕く技術を持った特殊技能者です。まるで饒速日命の霊験を体現する人間に思えたことでしょう。石切(イシキリ)の名は特殊技能者イスキリが語源なのではないのかと思えました。どちらにしても石切さんのご利益は、饒速日命の霊験を体現した石工の特殊技能があったからこそ信仰されたのです。そこには遥かユーラシア大陸を横断してきた強い信仰心を持つユダヤの流民の影が見え隠れします。
今日の日本人は無宗教といわれますが、石切劔箭神社でお百度参りをする多くの真剣な人々の姿と情熱は、ふっと古代ユダヤの流民がキリストを信じた信仰の強さを思い起こさせます。今の日本にこれほど強い信仰が残る源泉には、この地が古代ユダヤの民の情熱の終着点という魔法がかかっているからかもしれません。イシキリ=イスキリの奇想は、古代ユダヤの民からの「俺たちはここにいるぞ」という存在主張の叫び声が、私に聞こえたからなのだと思えました。
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