2014年の演劇集団キャラメルボックス《無伴奏ソナタ》当時の感想
2014年10月30日付で、演劇集団キャラメルボックスの《無伴奏ソナタ》を2度観た感想をTwitterにぼつぼつ書いてたものを拾い上げたまとめです。
以下、当時のをそのまま載せます。自分用です。
プロローグ、《音合わせ》。
初見は、光の輪が波紋状に広がるさまにおぉ、と思い、音と光の共演にただ目をうばわれた。二回目で、こういうことじゃないか、と思ったことを書く。 他の人々がただ発し、消えていくだけの《音=声・挙動=才能》のなか、クリスチャンの《音》だけが、周囲の耳目を引く。否応なく、確固として際立って。 しかし、彼が再びベルを掲げると、それが鳴る前に周囲はいっせいに自分のベルを音高く鳴らし、彼の音を塞ぐ。彼を取り巻くそれぞれの思惑の不協和音。 孤立した彼の元をやがて人々はばらばらに去る。ひとり、ウォッチャーだけは残っている。
クリスチャンはそれに気づかない。いまや誰にも自分の《音》を期待されない彼は、それでも、自分の手の内の《楽器=才能》を見ることをやめられない。世界中の誰もが彼にそれを捨てろ、忘れろと口々に叫んでも。 立ち去るクリスチャンを、ウォッチャーだけが見届ける。そして――物語の幕を開ける。
《第一楽章》クリスチャンの時代。
(ストーリーの前にまず申し上げたいのだが、メイカー時代のクリスチャンにシャツ+黒ベスト、というリラックスフォーマルを着せた衣装さんに盛大なる拍手と多大なるサムズアップを贈らせて頂きたいっ!! クリスチャンの、一人前に成長したおとなの姿と、外界から隔絶され手厚く守られたまま体だけ大きくなってしまった世間知らずのぼっちゃん性を同時に提示する、かつもんすご見た目に麗しいという素晴らしい選択肢だったと思います。
この後、かっこうが変わっても白っぽいのが最後に効いていい。)
この頃のクリスチャンは何せ陽気で無邪気で、ポールと軽口を言い合ってはけらけら笑う明るさがまぶしい。(二度目だとここでもう泣く) 母親と引き離されて泣き叫んだであろう幼児の片鱗は完全に消え失せ、与えられたものだけに満足し、許されていないものは素直に諦めることが習い性になっている。
もしかしたらクリスチャンはオリビアのような若い女性を見たことが無かったのではないのか?政府がオリビアをあてがうつもりだったのかは不明だが、しかし「私の思いをきっと気付きもしなかったでしょう」というオリビアへ、クリスチャンも、己で認識出来ない好感情を抱いていたことは想像に難くない。
ポールはともかく、「ふつう」を知っているオリビアの視点を持ち込むことで、クリスチャン自身が仕方ないと受け入れていることごとが、余計に淋しくて仕方ない。
ああそして憎いリスナーの男。きさまさえ居なければ。というかいっそバッハさえ居なければ。ええい何が音楽の父だ。ちきしょうめ。
《第二楽章》クリスの時代。
オリビアが咄嗟に口から出任せたモグラ叩き状の「ピアノ/玩具」がここで活きてくるとは…!!
初めてピアノを聴いたクリスの、今にも泣き出しそうな声が忘れられない。まるでばらばらに外れてしまいそうな自分を必死で支えているような、震える声の「きれいな音だね」。
その音はどんなに彼の神経を痺れさせただろう。どんなに甘美に罪へ誘っただろう。知らないうちは耐えられた。しかしその音色を聴いてしまっては――後戻りなど不可能だった。 かぼちゃスープに付随するように、おとなになって初めて耳にしたピアノの音からも、母親の記憶が蘇らなかったわけがない。
ピアノの音は、母と、初めて接した年頃の女性という、彼にとって重要で、きっと生涯幸福な記憶であり続けた2人の女性と、分かちがたく結びついたはずだ。 だからこそその音は、彼の背骨を焼くように、甘く強烈に――ストレートのウォッカのように、彼を絡め取ってしまったのだ。
母の存在がオリビア=ピアノ、を通じて提起される一方、ヴァイオリニストの父の存在は、「日常」のなかでは出てこない。その代わりに、「日常」を壊す者として訪れるウォッチャーが、クリスチャンの父性になっているようだ。
ウォッチャーがクリスチャンの前に現れるとき(それはさらなる転落と苦行を伴うにも関わらず)、彼は、いつも少し微笑む。政府の手によって厳格に規律的に育てられたための礼儀正しさゆえでもあろうが、しかしその微笑みは、「やはりあなたは、ぼくを叱りに来てくれた」と云っているように見えるのだ。
自制の効かない欲求を、その育ちゆえに誰よりも恐れて苦しんでいるクリスチャンの、「ようやく、ぼくを止めてくれるんですね」という安堵感に。そして、呼び名も居所も、関わるすべての人々をも、もぎ取られるように変えられる人生において、「ただあなただけは、変わらずにぼくを見ていてくれる」と。
《第三楽章》シュガーの時代。
楽器を奪われ、奏する指を奪われ、それでも音楽を欲する人間に残るのが、歌で、声だ。(『わっしょいわっしょいぶんぶんぶん』だ) いちばん辛い労働を担う人々が社会の隅々に影響を及ぼしていく。ブラックミュージックの伝播のように。人間の強さを見る思いがする。
開けっぴろげで快活だったクリスチャンが、今やいろいろな戸口を静かに閉ざし、ひっそりと草のように佇んでいる。それでも彼は人を憎まない。人を羨まない。呪わない。人間が好きなのだ。
どうしてそう居られるんだろう。どうしてこんな人がこれほど不遇でなければならないのだろう。
終幕。
年老いたクリスチャンの「君たちは幸せか?」の問いに、青年が応える。「幸せさ。仕事もあるし、友達もいる。休みの日には歌だってうたえる。」それはいつかギレルモが発した応えにそっくりで、ささやかで満ち足りて、そして残酷だ。そのどれもが、クリスチャンには無く、叶えられもしないから。
クリスチャンもきっとそれを感じ取る。幸せの証明がひとつも無い我が身を。ふつうの人々と同じ人生を送れなかった己の歩みを。自分は、何も得られなかった。何も生み出せず何も残せず、何も享受出来なかった。彼らのような、他の人と同じ何物をも。 しかし次の瞬間に、もうひとつの言葉が待っている。
「この歌をつくった人は、わかってるんだよ」
何を?と彼は訊く。「とにかくさ、わかってるんだよ」
その言葉は、つまり、「同じだよ」だ。クリスチャンとは異なる《正しい》人生を歩み、仕事も、友達も、歌もある、ふつうの人々が、「自分の知っていることを、この作者はわかっている」と思うのだ。
クリスチャンは得ていたのだ。他の人の味わう喜びを、悲しみを、幸せを。彼もまた生きていたのだ。彼の人生は棒に振られたのではなかった。無駄にすり減らされたのではなかった。すべてを取り上げられたのではなかった。 人と同じ物を受け、そして人に愛されるものを、生み出し、そして残し得たのだ。
よくやった、と誰かが言う。がんばった、と誰かが言う。おめでとう、と誰かが言う。ありがとう、と誰かが言う。喝采。喝采。喝采。彼の命に対し。人生に対し。労わりと祝福と感謝を。
指の無い手で帽子をとったクリスチャンの顔を、私は二度とも確認出来なかった。湧き出る涙の層が眼球を覆っていたからだ。
原作も味わいたい。読んで、またクリスチャンに思いを馳せたい。 DVDの発売を心待ちにしています。
2014.10.30