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《きらら浮世伝》感想:自分にとって惜しい点

 今月の、歌舞伎座昼の部《きらら浮世伝》は、わたしにとって、好きなところとスキジャナイところを闘わせるとスキジャナイ勢がちょっと勝つ、という作品でして(※現状では)、そういう点では《狐狸狐狸ばなし》に対する感覚と似ています。(→そのときの感想:https://note.com/sarumal/n/n2ade21824097?sub_rt=share_pw)
 あと数回観るつもりで居ますので、今後自分が割り切って観やすくなることを目的として、not for me なとこを整理します。なお、そのnotは脚本と演出に対するものであって、演者に対するものではないと思います。
 以下、利便性のために番号を振りますが、これはスキジャナサの度合いや順位を示すものではありません。
 ①重三の動機の不確定さ
 ②「絵」に対する尊重の見えなさ
 ③廓に対する思いの軽さ
 ④ヒロインお篠の都合良さ
 

①重三の動機の不確定さ:

 重三が「絵や刷物(→読み物)を見るのが三度の飯より好き」なのは分かる、「絵の良さを見極める目だけは自信がある」のも分かる。培ってきたその眼力で、優れた絵を世に出して人々を楽しませたいのも成り上りたいのも分かる。
 ところがここに読み物が入ると分からない。彼は、読み物の良さを見極める修行はしてないように思われるし、その点を伝えるセリフは無いからだ。しかし物語が後半にゆくに従って、このあたりの境界はかなり曖昧になってゆく。恋川春町や太田南畝や、文筆家としての山東京伝が公儀に圧迫されてゆくのは読み物作品の娯楽性や風刺性ゆえであるのに、それゆえ重三が大切にしている「絵を見る目」とは厳密には関わりが無い分野なのに、出版元として扱っているというだけでエンタメで括られてしまっている。「人々を楽しませたい、明るくしたい」という重三の根本動機は書き物にまで及ぶのだろうか?そうだとしたら何故それを伝えるセリフが用意されていないのだろうか?
 たとえば明治の世を想定して、美しい水彩画や版画が好きで絵を扱っていた画商が、同じ印刷物だからというだけで新聞も店に置くようになり、新聞の記者や論客とも親しく繋がり、やがてその新聞内の社会風刺や政治批評が過激であると取り締まりを受けるようになった結果、当初の画商に立ち戻ることをせず我武者羅に新聞を擁護する── そのような、目的と初心の見失いや行動の唐突さから、動機のとっちらかりを感じるのである。蔦重が読み物を擁護するのはいい、そのエンタメ性を理解し応援するのもいい、しかしそうする理由の描き方が弱い。この弱さ、筋運びの納得いかなさは、重三が絵に対する眼識を強調すればするほど、読み物はどうなんだ、という対比でくっきり浮かび上がって、こちらの胸を疑問符でいっぱいにする。
 

②出版関係者の「絵」に対する尊重の見えなさ:

 ①をふまえて、では絵に対してはきっちり向き合っているように描かれるかといえば、そこでも面食らうような描写が次々出てくるので余計に気持ちがぐらぐらする。
 初鹿野の座敷での勇助の絵の扱われ方は、酒宴の場ゆえ不問として。その後、まだ店構えの小さい耕書堂の店先で展開される様子にまず疑問がある。明らかにレベルの落ちる絵を、引っ掛けの小細工として用いられて腹を立てて破る、これはまだ若い重三の(※直前にもブリブリ怒っていた)すぐカッとなる気性の表現と思えば、まぁ、まだ吞み込める。問題はそのすぐ後で、”見境無い大喧嘩” の描写であろうが、素晴らしいと褒め称えた有望絵師である勇助の右手や右腕に、あんなに躊躇無く攻撃を仕掛けられるものだろうか。腹を蹴ろうが胸を殴ろうが、絵師の利き手(と目のある顔面)だけは無意識にでも避けてしまう、あたりが重三郎のキャラクターを強く出すのではなかろうか。
 絵を飯の種にしている筈の人々が、そして物語の根幹に “創作物と創作者への感謝と称揚” が在るように思われるこの舞台で、あまりにも絵が雑に扱われているように感じられて気が滅入る。足元に散らばったその絵を、他者が描いた一点物の作品を、踏んでしまわないようにそっと持ち上げて高いところに置いたりしないものだろうか。師匠と仰ぐ絵師の描いた絵を、抑えきれない激情の表出表現だとはいえ、そんなにぐしゃぐしゃに握り潰せるものだろうか。
 観ながらいちいち『いやあれはきっと……』と肯定的に捉えようと思うのだが、なんで鑑賞者が言い訳しながら観なならんねん、という気になって疲れてくる。
 気疲れくらいなら大したことはないけれど、大したことだと思うのは、随所で見られる絵の扱いの軽さが、クライマックスでの「写楽の絵を破る」ことの重さをも損なってしまっていることだろう。あの劇的であるべき意思表明が、不可逆なインパクトが、それまでの粗雑な扱いによって霞んでいる。
(※なお、小道具の絵自体も、上演回ごとに消費されるゆえ折り合いをつけた結果でしょうけど、カラーコピーっぽいつるんとした質感で、不自然だなぁと思っている。)
 こうしたことの積み重ねで、①の重三のキャラクターの説明も、どんどん色褪せて感じられる。もったいないことだなぁと思う。
 

③廓に対する思いの軽さ:

 全体を通して、大門の内側の世界について、よく考えることをしないままお書きになったんとちゃいますか??という印象をわたしは受けるのである。
 最初に ハァ?? と思うのはお篠が門を出て春町と喋るシーンでの、「男は辛いことを忘れるためにこの門を潜るのに(おまえさんは逆だ)……うまくいかねぇな」というようなセリフであり、
あったりめえだろそっちは客だろこっちは接待側だろ、何対等な立場で性だけ違うみたいな寝言ほざいてんですか、ていう気持ちがまず起こり、それを我慢して観ていると、「さぁ もう自由だ  何処へでも飛んで行きな」みたいなことを言われて再度のハァア!??が来るわけですよ  籠が換わっただけだろうが!!?? 身請けされて店の所有物から元客の所有物になっただけで、彼女自身の行き先の自由なんて囲い主が死ぬか自分が出奔するか手が切れるかするまで無いじゃねーすか  そんなことも分からないような無知でも無粋でもないはずでしょう恋川春町は、するってぇとそんなことを理解する素地の無い馬鹿野郎ってことになっちゃうじゃないですか  いいんですかそれで?そんなキャラにしていいんですか??
と肚をぐらぐら煮立てて見ることになるので、お篠さんの哀しく晴ればれした名演技にも乗りきることができない。いいシーンに仕上げたいという意図は見えるだけに、消化不良である。

 あともう一つ引っ掛かるのが、ラストのお菊さんの「里帰り」で、これはほんとうに同調できない。二度と戻りたくないんじゃないですか。自分の心としてもそうだし、運よく(※もちろん耐えきったお菊さんの努力や才覚も大きいんだけど、いろいろな要因が結果として味方してくれたわけで、やっぱり【運】の要素も強かったと思うんですよね、遊女の年季勤めの達成というのは) 足抜けできてまっとうな市井の婦人に納まれた、レアケースの成功者としての自分を、今も苦界に繋がれている嘗ての同輩に見せる(→見せびらかす)行為は、お菊さんの性格だったら避けるんじゃないかと思うんだ……。どんな顔するんだよ、「買う」側と一緒に行ってさ。「売り物」の人々の前でさ。

 なにかそういう、廓に生き(ざるを得ないでい)る女性たちに対して、芯のところの共感に至らぬまま、”遊女のかなしみ” を一通り組み込んでいる(だけの)ように感じられてしまうのです。
(※歌麿の、最下層の遊女に対する見下しと罵倒にしても、そんな泥水に浸かった人の中からでも女の美を見出すのが歌麿じゃないかい、という思いをわたしは持っているのだけどそれは明らかに個人の趣味なんでいいです。)
 

④ヒロインお篠の都合良さ:

 ③とも通じることなのだけど、【理想の女】として在るお篠さんが哀れで辛くてしんどいな、とずっと思う。惚れた男は "勇気が無くて" 抱いてはくれず、そのくせ人の物になってから自分が苦しい時に縋りに来て(※そんなところを旦那に見られたら姦通罪で重ねて四つに斬られたっておかしくないので大変デンジャラスである  男の勝手な都合で一方的にリスクを負わされる不条理さ!)、もっと手酷く追い返したっていいところを諫めてやって励ましてあげて、その上で「薄情な女ですね」なんて自己卑下のセリフを言わされて、(は~~今もだんだん辛くなってきた、)
あそこで出てくる春町センセイの幽霊は、本物の亡魂なのかお篠さんの頭の中に居るイマジナリー他者なのか、どっちでもありうると思うんだけど、
本人だとしたら、なんだって惚れた男を身を切る思いで遠ざけた一方でただ多少敬意や好感を持ってただけの知り合いのオッサンの幽霊に居座られて手を摩られなきゃならねんだと泣きたくなるし、イマジナリー先生だとしたら、深い関係を構築してなくて程々に優しくしてくれた “ちょうどいい塩梅” の他者を脳内に棲まわせなきゃ自分の心を守れないほどお篠さんの精神がグシャグシャ寸前ってことだよな、と思われて、一層ひどく泣きたくなる
 辛いよ 辛いシーンだよ両側オッサンに引っ付かれてそれでも笑っていなきゃならないのは (※お篠さんがそういう、菩薩のような優しい女性に描かれているのは分かります  菩薩として描かれているということにわたしが反感を抱いてしまっているだけで)
 
 どうしてお篠さんばっかりがこんなに己を擂り潰すんです
 どうしてお篠さんは、心の支えひとつしか倖せを掴めずに取り残されなきゃならないんです?そのたったひとつの幸福を大事に大事に抱きしめられることに感謝して笑わなきゃならないんです?お篠さんだけが? “理想の女” だけが??
 
 って思っちゃって乗りきれないんす
 あれをハッピーエンドとはわたしには思えない  少なくとも「ハッピーエンド」の区分には入らないし、入れたくない


 《きらら浮世伝》、絵として雰囲気としてイイ場面はいっぱいありましたし役者さんの姿も声も好かったです  とりわけ "黒衣" の見せどころが素晴らしかった  何度でも観たいんだ……文字通り、道いっぱいの花弁を蹴立ててゆくような勇壮な引っ込み連……


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