菊之助丈の《俊寛》初日付近の感想:「諦める」ことをしない僧
菊之助丈俊寛の最後の目の意味が分からない。
初日・二日目・三日目・五日目と四回観て、なおはっきりと掴めない。というのも、
俊寛といえば自己犠牲と凡夫心、孤独と絶望とその先の諦観、というあたりが定型であろうが、岩に登って遠くを見つめる菊丈俊寛の目は、わたしには、諦めているようには見えないのだ……。
俊寛は、はじめ遠くの水平線を見る。遠ざかって姿を消した船をいつまでも見送るように。そのあと、その視線が、ゆっくりと上がっていく。焦点はどこかに合っている。ぼんやりと遠くを見ている目でなく、遠い何かを見ている目。海原より高い位置。その目はさらに高みを見、降りそそぐ光の根源を見据えようとするような、意志的な眼差しに感じられる。かっきと見開かれた目に宿るのは絶望でなくて挑戦的な希望に思える。野望とでも云えるような。
では何を見ているのか。いずれ彼を迎えに来る弘誓の船か。
浄土からの船を “当然来るものとして” 待ち望む心は、眼ばかりぎらぎらと光らせて都からの船を期待していた心と何が違うのだろう。
現世での救いか、死後の救いか、死の先までも長く続くスパンで “個人の人生” を考えたとき、二つめの世界に意識を向けるのは、特に僧侶である俊寛には、自然なことだろう。
彼を現世に繋ぎ留めていた最大の楔である妻東屋が最早この世に居ない以上、彼が現世に求めるものは、死後に東屋と共に過ごす環境をより良いものにするための、功徳だけではないだろうか。
都には帰れぬと宣言され、名を口にするだに愛おしい東屋の死を告げられて、完膚無きまでに絶望に打ちひしがれ、気力も体力も武力も権力も財力も、御仏の慈悲すらも、自分は何一つ持たぬように思われて、それでも、そんな状況に在ってさえ、土壇場で若き善女を一人救済することができた。この物語は、彼にとってそういう成功体験となったのではないか。
この先も、生きていれば功徳を積むことができる。功徳を積めば、いずれきっと訪れる浄土で、生きて都に帰る以上の栄光栄耀に包まれる。
そのために彼は生きてゆくのではないか。死の先に向けて生きるのではないか。彼の見据えるものは既に現世に属するものでないので、見据える先は “後ろ向き” だが、その目に宿る力は強く、真の意味で “絶望” することはないのではないか。
そーゆー俊寛像をいま菊丈は試しておられるのではないかな~~というのが……わたくしの……現在の……見え方ですね…………
初役でそんなチャレンジングなことをなさるだろうか、最初はお行儀よくきちんと前例をなぞってゆかれるのでは、という気もするのだけれど、でもあの菊丈ですよ、悲嘆や絶望を表そうとなさったら、確実にこの凡夫の目を突き抜く演技をお見せになるだろうと思うのですよね…………。
菊之助さんという御方が、現代日本に珍しい域で、仏教的な思考を──「仏教」そのものというよりも「仏教を基盤に神道や儒教あたりが自然と生活の中でフュージョンされたニッポンの【道徳】」を── 日頃から規範に意識されてる方のように思うのです。そのため、菊丈が改めてお役を深掘りしてお考えになったときに、俊寛が宗教者であるという要素に着目なさるのも不自然ではないのではと。
千鳥が、愛しい少将と共にゆかれないことを心底悲しみ口惜しがり、岩で頭を打ち割ってしまおうと決意したとき、わたしは「あ、この子は蛇体になる一歩手前の清姫なんだ」と思った。同時に、恋した留学僧が日本へ帰る際に海へ身を投げて龍と化し、唐からの船旅を守護し日本で僧のために岩となった唐の淑女善妙を思った。恋慕のあまり生きた人間でなくなってしまう前に、俊寛は千鳥を救ったんだと思った。人間の生に引き留めたのは僧侶の務め、自分の権利を譲ったのは仮親の情。
迷える衆生を救ったのも、親が子の幸せを願うのも、当然の範疇で為されることで、しかしやはり自己犠牲を伴う点で美談である。そうして、自己犠牲が、釈迦の前世の雪山童子のように、より良い “次” への大いなるポイント加算になるというシステムが仏教の考え方には在るではないか。その点で、他者への施しは自分へと還ってくる。試合に負けて勝負に勝つ。より大きな視座に立てば、全てが自己救済に繋がっているとも考えられる。
今月の《俊寛》を見ていて(※これは今月のが特別そうだというのではなくて、単に今までは一回ずつしか観る機会が無かったのでそこまで考え込む余裕が無かったためかもしれないが)、ずいぶん自意識の膨らんだ人物なのだなこのひとは、と思ったのだった。
貴方たち二人しか知り合いが居ないのにどうして久しく訪れてくれなかったのだと甘えるように文句を言う。船が着けば先に蹲った康頼を突きのけるようにして自分が前に出る。自分の名だけが無いことを「何故読み落とした」と相手の落ち度と信じて疑わない。
そうした振る舞いや考え方が許容されるほどの身分の人であったのだろうと想像できるのだが、このたっぷりした自意識が、感情の起伏の激しいこの物語の味付けをさらに濃いものにしていて、かつ俊寛が人として一皮剥ける成長譚でもあり、それでいてパーソナリティは不変である。自己中心的で(でも人間ってそういうものでしょ)、みっともなくて(でも人間ってそういうものでしょ)、その上で他者に優しくすることもできる(そういうものでしょ)。最終目的が自己であれ他者であれ、行為で他者が救われる(世界ってそういうものでしょう)。
吉右衛門丈の俊寛は克己心と慄きと受け入れの、個人の内面を描くドラマだと思った。
仁左衛門丈の俊寛は慈愛と悲愴と風化の、人間というものの普遍さを見せるドラマに見えた。
菊之助丈の俊寛は、自意識と執着と、エゴすらも生きる力に取り込んでゆく無尽蔵の可能性、人間賛歌のドラマといえるのではないかと思っている。今の時点では。
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