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十二月歌舞伎座《あらしのよるに》感想:ことばに重きを置いた芝居

■前置き

(なので次の■まで読み飛ばしても問題無いです)
 
先週。ありがたいことに、『行けなくなってしまったチケットがあるのですが歌舞伎座の第一部観ませんか』と数日前にお誘いいただいて、ウッヒョウ行きます行きまーーす!!!!!✨ て座席不問でお返事して、当日東銀座向かって開演十分前に受け取ったチケット見たら座席が一階の花外トチリだったんです。のけぞった。完全に三階の気分だった。
 
そんなわけで望外の眺めで愉しんでまいりました 二回目の《あらしのよるに》…… 自分で確保しといたのは上旬と楽の二枚だけで、どっちも三階正面だったので、観られるはずの無かった客席渡りや花道手前の景色がこんなにも観られて幸甚と言うほか無し……
途中、がぶ獅童丈が客席に分け入ってズイズイと横切ってったスペシャル列が、首を軽く捩じって後ろを向くとすぐそこの(※そっち側はお隣さんも後ろの列の方もいらっしゃらなくてスカァンと見通せた)まさに目の前の位置で、先に通ったしどさんに続いて、海外からのお客さんたち(男性は大変りっぱな体格でいらした)の前をムイムイ……と通りながらちょっと困った顔で「Sorry…」と巻き舌で詫びるめいの声も、そのあと花道に引き上げてくれようとするがぶを見上げて「アナタ異国の言葉もお出来になるんですね」て仰ってるめいってゆーか菊丈のハニかんだお顔も!!ほんのすぐ眼前から!!!バシャ!!!ぎゃわわ!!!!
 
いやーー最大光量的衝撃波はそのシーンがトップでしたんですけど、位置的最大衝撃波を予測したのは冒頭でした オオカミたちが遠吠えしたりの群舞場面で、下手の岩山(←黒御簾上部まで高く続く段々)に一頭が登ったのを見て『あっ この席 自分 前半最後でしぬ』と悟ったのです
 たぷが  そこに  来るんですよ
花外から!!下手高台へ!!一直線に!!!何隔てられることの無い視界が!!イチオシ御兄弟の弟御・亀蔵丈たぷと自分とのあいだにひらけている!!!!!!
──という事実を認識して身が竦み上がりました
 
結論を申すと実際には、遠くを見るため額に右手を翳したたぷのポーズで、垂れたお袖がお顔を半分ぱかし隠す時間が挟まれたので命を手放さずに済みました あの袖無くばあぶなかった
 
 
さて。
そんなわけで慣れぬ近さに随所であわあわした鑑賞体験だったのですが、
距離感と関係無いところが本題です。


■ことばから見る《あらしのよるに》

 
 大詰、ぎろとの死闘と雪崩を潜り、極度の飢えで心身が弱ったところに頭を打つか何かで一時的に記憶と人格を失い、肉食獣の生存本能に意識の表層を覆われたような粗暴ながぶが、自分を取り戻す場面について。
 
 覚醒の引き金となる「あらしのよるに」の七音は、がぶにとって大事な大事なあの夜のことを思い出させる言葉であり、それが斯くまで劇的に作用したのは、彼がこの七音の連なりを、人生(狼生)で初めて出逢った友達と再び会うための合言葉として、忘れも間違えもせぬように、熱意を込めて慎重に、繰り返し繰り返し胸に唱えただろうからだ。
 それは、がぶの心身が、あの夜の思い出をダイレクトに呼び覚ましうる【めいの声】には反応せず、【ことばとしてのその七音】に反応したことが示している(と思われる)。
 自分の属するコミュニティにその性格ゆえ馴染めず、馬鹿にされ、爪弾きにされ、亡き父親の他に自身の個性を認めて受け入れてくれるひとを持ちえず、傷心の末に長い放浪の旅に出ていたがぶが、生まれて初めて肉親の他に、在るがままの自分を肯定してくれる他者を知り、溢れ出る歓喜と幸福をたっぷりと浸み込ませた大切なことば。生涯最大にして最高の喜びの記憶と不可分に結びついたのが、ふたりで決めた合言葉:「あらしのよるに」だ。
 つまりがぶは、自分の心に救われたのだ。めいの素敵な外見でなく、めいの存在そのものでもなく、めいという ”初めて自分を受け入れてくれる他者=世界” を知った記念碑的出来事の記憶が鍵であり、その奇跡的邂逅を愛しく嬉しく尊重し大事にしたいと強く願った彼自身の行動と思念が後の彼を救ったのだ。“がぶらしく” 在った過去のがぶが、現在のがぶが憑り付かれた ”オオカミらしさ” を蹴散らし、上回り、アイデンティティーを取り戻させ、大切な友達と自分の窮地を救ってくれたのだ。
 
 【自分らしく生きること】への、なんという力強い賛美であり、応援であろう。
 
 “自分らしく居ていいんだよ、周りの人と違ってても、こんなに素敵なおともだちができるから” がこの物語の(小さい方々に向けた)メインのメッセージだと思うのだけれど、わたしは “居ていい” よりももっと、前進力を注がれた励ましの物語だと受け取った。あなたがあなたらしく在ることは、いつかあなたの大切な人を助けるし、あなた自身も救うんだよと。だから安心して生きなさいと。
 
 
 この、がぶとめいとの、互いの顔(肉体)を感知できない状態での出会いと、言葉を通じての分かり合いは、【オオカミとヤギの言語が共通であった】という恵まれた環境下での僥倖であって、二種の動物が別の言語の話者であれば叶わなかった。もしもヤギ/オオカミそれぞれが特有の言語を持っていたなら、めいが挨拶を発した時点でジ・エンドである。
 さいわいなことに、この世界では全ての生き物が共通言語を有するらしく(※初演時にはリスなど他の種族の動物も登場している)、第一言語の獲得とともに世界と繋がることができる。それは現実社会で英語圏の子どもが即グローバル化できるのと同様だ。
 嵐の夜のがぶとめいの、言語による手探りのコミュニケーションは、ネットの世界の情報交換によく似ている。肉体の情報から自由になった、アバターとしての個人同士の対話。今の若年世代には実体験を重ねてよく分かる感覚であり、また年配の世代には文通文化が思い出されるかもしれない。
 ことばによって救われる物語は、ことばによって始まっている。
 
 私にとってタイムリーに作用したのは、この鑑賞の一週間ほど前から、【歌舞伎の上演形態における音声で伝達される情報の重要性】が意識に有ったことだった。
 歌舞伎学会で賀古唯義氏のお話を伺い、『芝居小屋の舞台ってそこまで暗いんですか!!』という衝撃を深くし、『ということは、舞台は見えづらいのが当たり前で、頼りにならない視覚情報じゃなく聴覚情報により重きを置くような演出を採択するのが自然だよな』と思ったのだった。

 歌舞伎役者の良し悪しを決めるという評価ポイントが【一声・二顔・三姿】という、視覚よりも聴覚を優先した基準であることも、劇場内の見えづらさの程度に関わらず享受される “良さ” の重要性を今に伝えているのでないか。
 (──と思ってから、『一声・二顔は憶えてるけど三は何だっけ』と検索したら松竹さん協力(?)の 歌舞伎用語案内 のページが提示され、見ると前述のイチニィサンの説明として「天窓からの自然光とわずかな照明しかない芝居小屋では、顔や姿は化粧やかつら、衣裳でどうにでもなるので、劇の展開にはせりふと音楽が大切だったからでもあります。」とあり、既に自明のことなのだった。サーセン。)
 
 《あらしのよるに》では、めいに対して食欲と理性が鬩ぎ合うぎろの苦悶の表現にも義太夫が用いられていて、客席から笑いが上がる楽しい場面であるけれど、江戸時代からの義太夫・歌舞伎の舞台が本来、キャラクターの内面をことばで明確化し、それを音声で発信し、客は耳で情報を得るという、【ことばの芝居】であることへ、光を当てた演出でもあろう。


 

■性的力関係を見る《あらしのよるに》


 物語を通じて、主人公がぶは【ことば=対話=自分と他者の人格】を重視する善き者として描かれている。それに対して悪しき者ぎろは、がぶを反転させた【非対話者】の代表である。(ぎろが耳を失う/失っていることも、「他者の話に耳を貸さない」「聞く耳を持たない」性格の暗示か報いのようだ) “獣欲の完全結晶体” みたいなキャラクターである。
 
 二度目の観劇回は、めいの母がぎろに追い詰められ殺される場面で、ぎろの悪辣さ・厭らしさを強調するためか、被虐者が思う筈の無い、「これ(←いたぶられること)が好きなんだろう?」等の弁をわざわざ言い立てるというポルノ的な捨てゼリフが入り、私個人の見ている現実社会のタイミングも相まって、受ける所感は最悪であったが 最悪ゆえにぎろのヒールっぷりがさらに色濃くなったのも認める……。
 
 ここで「ポルノ」の観念が浮かぶのは私にとって唐突でなく、《あらしのよるに》は土台から、オオカミがヤギを食べることと、男性(強者)が女性(弱者)を性的に襲うことが重ね合わされて見えている。がぶがあれほど苛まれ己を律しようと奮闘する「肉を食べたい」欲求も、そのまま肉欲として二重写しに変換される。
 (たしか村上春樹の『スプートニクの恋人』だと思うのだが、若い男性主人公が、自分に対して恋心も性欲も持っていないしこれからも持つ筈の無い親しい異性の友人と気を許した格好で二人だけで部屋に居るときに、彼女を襲ってしまいたいという激烈な性欲を表面に出さずに抑え込むことに殆ど肉体的痛みを感じるほど苦しむ描写を、がぶの悶えを見るたびに私はぼんやり思い出す)
 
 「食べる」という動詞が日本語において「性的に相手を思いのままにする」ことの暗喩として使われうるのは一般認識としてよいと思う。性的な文脈における「味見」「つまみ食い」などもその意識に発したものだろう。
 また、性欲が「獣欲」と表現されたり、欲求に対して理性的・社会的な枷を取り払った様子が、そして会話が途絶えて頭部から出る音が呻き声や鼻息だけになった状態が、「獣になった」と表されたりするのも、言語感覚として共有されているだろう。欲求のままに貪る姿勢は獣と同化され、獲物が喰われていくさまは凌辱と近しい。

 要素を整理するとこのような連想になる。
 
【オオカミ】
(上位)  食べる → 犯す = 加害 → 男性性

【ヤギ】
(下位) 食べられる → 犯される = 被害 → 女性性
 
 【オオカミ】は【ヤギ】に対して選択権・行使権を有する。「食べられる」ことで【ヤギ】は不快や嫌悪を覚え、ダメージやリスクを負い、精神と肉体と人生を滅茶滅茶にされる。(無論、性的加害者が常に男性であるわけでも、被害者が常に女性であるわけでもないことは書き添える)

 「食べられる」側の【ヤギ】にとって「一度も牙にかかっていないこと」、すなわち操とか純潔とかいうものは守られるべき宝であり、その貴重さゆえに、自らそれを差し出すことが本人にも差し出された側にも覚悟を要す重大事となる。そういう共通認識が、日本社会にも在った。(※後述)
 その重大事として、めいの「わたしを食べて」も描かれていると思う。いや『ジャングル大帝』のレオだって一緒に登攀したヒゲオヤジに同じこと言ったんだから全てがそうとは云わんですよ、でもこの物語、《あらしのよるに》においては重ね合わせていいと思うの!!!
 プレーンな見方をなさる観客には「食べてエネルギーをつけて生き延びてね」の受け取り方でいいと思うし、ソウジャナイ見方をする者は「ここで二人で死ぬのなら最後にわたしを抱いてください(そうしてわたしの体で温まってあなたは生き延びてください)」のニュアンスを感じ取ってもいいと思うの…… そう見ても構わないつもりで台本書いてくれたと信じてる……
 
(※余談。ここ最近の、現実社会で見聞きする ”性的な場面において対話が成立し得ない” 事例の数と程度に私は軽く絶望してまして、そのため操とか純潔とか云われてたものに対して見方がちょっと変わりました。あれは女性の行動を縛るものでもあったでしょうが、男性の行動を縛ってもいたのだなと。女性の精神的・肉体的保護のため、話の通じない無数のバカに対して、あらかじめ社会常識として周知徹底させておいて、「(実感としちゃよく分かんないけど) そういうもんなんだな」って前提的に尊重させるための手段として一定のレベルでは有効だったんじゃないのかなと。土壇場で言って聞かせて分かんないバカになりえる者を、社会全体の道徳教育で極力減らしておこうっていう、そういう方策だったんじゃないかなと。)
 
 
 対話性を持たないぎろは【オオカミ】の中のトップであり、対話に重きを置くがぶは【オオカミ】の群れに馴染まない。
 そうした、己の中の加害性を自律心と思いやりで最大限抑え込んで生きてゆくことを選んだがぶが、女性の割合の多い歌舞伎座の観客に拍手で祝福される幕切れは、現実社会で【ヤギ】の立場にある側の人々の無意識的喜びもまた反映しているのではなかろうか。
 
 とはいえがぶも聖人(聖狼)でも仙人(仙狼)でもなく、最後の引っ込みの場でもなお、めいの肉体に対して「おいしそう」と感じる体と心を捨てられない。その凡夫ぶりが観客の笑いを誘っている。
 しかし、共に居る他者の外見的(→性的)魅力を認め、かつそれだけに留まらない/それ以上の価値を中身に見出し、内面をより尊重するという姿勢は、他者固有の持ちものである外見にまるで関心を持たないよりも、相手によっては嬉しく感じられるのではないか。常に心に揺らぎを抱えていてもいい。そのうえで都度都度乗り越え相手への愛情を確認する、そうした生き方も瑞々しく素敵に思われる。
 他者の肉体的魅力を否定しない。魅力的に感じる自分の身体反応も否定しない。そうである自分をゆるして認めるまでが、もしかしたらこの物語のテーマなのだろうか。煩悩を持つ己を否定するのでなく、その煩悩を乗り越える己をより強く肯定する。(愛染明王……?)
 
 
 愛染明王の認識ってコレでいいんだっけ……と確認のため検索したら、
「恋愛や人間関係を守り、手助けをしてくれる愛染明王は、もう一つの重要な役割も。それは、私たちの心の中に持つ愛と優しさを引き出すこと。私たちが自分自身を愛することができるように導いてくれます。自己愛は他人を愛する力の源泉となり、自分を大切にすることで他人にも優しく接することができるようになるでしょう。」
 て出てきて、『ど、ドンピシャーーーっっ!!!!』てなりました 《あらしのよるに》は愛染明王に護られし物語や……!!
 
 
 

これから原作読んで、千穐楽に臨みます。は~~~、三度目もたぷに目を奪われてしまうだろうな…………。


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