《桜姫東文章》上の巻 感想:①清玄編
四月大歌舞伎第三部《桜姫東文章》を昨夜(4/25)観まして…
一晩考えてたんですけどさ、前半は清玄に持ってかれてますねわたしは…
聞いてた限りでは、桜姫と権助の度外れたイチャイチャが主題で、それに振られストーカーの坊主清玄が迷惑に絡む話くらいに思ってたんですよ
清玄の話じゃん
清玄の17年の後悔と贖罪の話なんじゃん
本気で惚れ抜いていた愛する少年が潔く海に飛び込んで(このときの飛沫効果ええどすなぁ…)、自らもそうするつもりに嘘は無かったのに恐れが勝ってしまった半端者。
あんだけの美稚児、執着してたの清玄ひとりなわけないでしょう?寺の何割かが惚れてたでしょう??それを清玄ひとりが掻っ攫って、挙句にみんなのアイドルだけすぽっと死なせて己はびびって生き残って、どんなに謗られ馬鹿にされ、さんざ憎まれて蔑まれて、針の筵に簀巻きにされていたんだろう。死の前に腰が引けて愛する者のあとを負えなかっただらしのなさ、情けなさを、誰より清玄自身が骨身にしみて知っていて、日ごと夜ごとに己の皮膚に爪立ててばりばり引きむしって慟哭するような、そんな痛みを抱えて耐えて、そのどん底の醜聞から、食いしばった歯がぼろぼろに抜け落ちるような凄まじい艱難辛苦を乗り越えて、泥から伸びてすっくりと咲く蓮華のように、気高く尊く、凛と輝く高僧に、上り詰めてかつ驕らない、清玄の高潔さが際立って匂ったんですよ… ( 一 文 が 長 い )
清玄が17年間煮詰め続けぐつぐつぶつぶつと新鮮な腐臭を湧かせていた忸怩たる思いが、紫の僧衣を剥がれるときに、いっそ清らかに拭われたのではあるまいか。寒々しい白衣が殉教者のように清らかで、ここでの痛みは彼にとって微かに甘やかで香しかったと思われる。
為すべきことを為せなかった17年前の不甲斐無い己を、いまこのときこそ踏み越えて詫びようと、桜姫のためでなく彼女の向こうに見える “あのころの自分と白菊丸” のために現在の栄達を棄てるのだ。そんな人が惑乱してしまうのだ 目の前の桜姫という娘の美しさに、というよりは17年間抱え続けた白菊丸への想いが、香箱を通じていま目の前の人に宿ってしまって。桜姫に惑うのでなく、17年前の白菊丸に迷うのだ。
彼はずっと白菊丸を想っていたのだ
だから姫に取り縋るのは、二世を契った白菊丸が、彼を拒むわけが無いからだ。間違っているのは娘の姿の白菊丸のほうで、清玄は真意を思い出させてやらねばならない。
清玄が、若い頃の傷を抱えたまま齢を重ねた “大人” な一方、桜姫はどこまでも若い “小娘” なのが素晴らしいな…
彼女の溌剌とした生命力のような性欲についても書きたいんですが、また日を改めて。