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記憶を文章にしたためるということ

好きだった瞬間を覚えておきたいから、文章の形で書くことにした。

何かを素敵だと思うとき、これまでも写真は撮ってきたし、それを見返して当時を思い出すきっかけにすることはあった。でも、それだけでは自分の中で薄れて行ってしまうものがあると、30になってようやく知った。

単に視覚という感覚に絞っても、360度の空間にいるときの印象と、写真という長方形の枠に収めた印象はどうしたって違う。

ましてや、視覚以外の感覚、例をあげるなら草の匂い、空気の肌触り、風の温度、でも本当は個別に分けられるものではなくて、自分がその空間に立っているときの全体の感じとしか表現できないようなもの、その感覚をつかまえたいときは、一体どうしたらいいんだろう。

年を重ねるにつれ、記憶は薄れていく。何があったか事実としては覚えているけれど、そこで感じた生の感情が、知らないうちに失われていく。
それに気づいた時、私はどうしようもなく寂しくて、切なくて、それから渇望した。

自分の脳みその中に、感じた空間となるだけ同じものを再現したい。
目に映らないニュアンスごと、まるごと全部。世界も自分も絶えず変わっていくから、私の出会った瞬間は次のときにはたぶんもう無くて、それでも記憶の中で、なるだけそのことを思い出せるように。

それから、私は感覚を言葉にしはじめた。まるで小説の中で、文字一つで自分の知らない空間が周りに確かに生まれるように、匂いも肌触りもそこにあるすべてを、脳のどこかで知ることができるように。

感じたことをメモにする。不思議なことに書けば書くほど目の前にあるものの美しさがもっとわかるようになり、自分の感覚の解像度ももっと上がっていった。

言葉にできない小さなニュアンスを、そのまま残しながら全体を言葉にする方法を探す。
言葉をこねまわしながら、どういう表現がもっとも合うか考えていると、より細部まで観察が広がり、目の前の空間の美しさの解像度がもっと上がっていく。

そうしてまたメモが増え、やがて気づけば、感じたことを忘れないための方法は、世界をもっと好きになる方法になっていた。

どうして人は絵を描くのか。どうして人は文を書くのか。映像も写真もこんなに発達した世の中で、その瞬間をおさめることなんて簡単なはずなのに。

おさめることが目的ではないのかもしれない。目の前の世界を手に取って、輪郭を撫でて、手探りで少しずつそれを明らかにして、噛みしめるように味わうように、自分の中で探求して、その中でもっとそのもののことを好きになる。

決して自分の中には取り込み切れない、外側の、常に移り変わる世界。だからこそわかりたくて、味わいたくて、その手段として絵にして文にして、君のことを知った気になって。そうしてやがてそれが愛に変わっていくのだろう。

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みんなのフォトギャラリーから画像をお借りしました。ありがとうございます!

#創作大賞2024 #エッセイ部門 #旅エッセイ


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