打ち明け話のありがたさ
Noteを始めてから、他の人の記事を読むことが多くなった。
海外に移住しているとか、50から大学に通っているとか、働きながらずっと長い間毎日投稿しているとか、現実だとめったにお目に描かれない人たちがこの世に確かに存在しているのだと、本当に驚くし、励まされてとても勇気が出る。
何歳からだって新しいことを始めていいんだって思うし、
住む場所とか仕事って変えていいんだって思うし、
利益にならなくたって書き続けていいんだって思うし、
楽しんで生きていいんだって思う。
自分の現実の生活を生きていると、どうしても周りに集まる人は同じ学校、同じ職業、同じ土地の人になる。それもまた素晴らしいことだけど、そうでない人たちの生き方を知れるってものすごくありがたいことだ。
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思えば仕事を辞めた時も、そっと自分がしようとしていることを宝物みたいに打ち明けてくれる人たちがいた。それまでそんな素振りも見せなかった人たちだった。
みんな、何かやろうとしていることとか、自分の大事にしていることとか、そういうことについて話すのは勇気がいることなのだ。途中のことには将来どうなるかの保証はないし、誰より未来が不確定なことを知っているのは自分自身である。
「大丈夫なの?」と聞かれても知るわけがないし、成功だけを是としている人や失敗をけなす人にはそんな話をできるわけがない。
今まで歩いた自分の道や、世間一般で一番多いことがらを外れて新しいことを始めるのは誰だって怖い。それが自分にとって大切なことであればあるほど、たぶん。
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人生は生きている限りずっと、未来が見えなくて、孤独で、怖い。
小さい頃は、何度も希死念慮があった。迷惑をかけたくなかったから決して実行には移さなかったけれど、慣れ親しんだ普通のことのように、大人になっても希死念慮は顔を出した。希死念慮がなくなったのは本当につい最近のことだ。
自己憐憫に浸るのをやめると決めて、自分がかぶっていた多くのいらない殻を外して。今までの優等生のような生き方をやめたとき、多くの人が敵に回るような怖さがあった。実際、友達は半分くらい会わなくなった。でも、代わりにそっと打ち明け話をしてくれる人や、今まで以上に私のことを好きになってくれる友達がいた。
人というのは、私が見ることができなかった側面を、たくさん持っているのだと気づいた。多分多くの人が一番無難な面を表にしているだけで。私が白黒はっきりしたことしか見ないと決めていたせいで、そういう柔らかな部分を見せてもらえていないだけだったのだ。
人生が不確実で、孤独で、それでも自ら一歩一歩歩いているのは、誰もがそうだと知った。
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あの時、人が死んではいけない理由がずっと分からないと思っていた。でも、今はこうかなと漠然と思うことがある。
毎回会うたびに違うことをしているけれどずっと軸はブレていない友達、紆余曲折を乗り越えて医師になろうとしている友達、まっすぐに自分の店を開こうと技術を磨いている友達、子供が生まれて仕事を辞めた友達、会うたびに15歳の会話に戻れる友達。
友達が成功するから好きなんじゃない。友達が、人生の不確実性を一緒に歩いてくれるから、自分も生きようと思えるのだ。人生はその人にしか歩けない孤独なものだと思うけど、同じように違う道を、隣で違うように歩いてくれる人がいるなら、それだけで私も頑張ろうと思うのだ。それは相手も同じで、だからこそ、私も死んではいけない。
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打ち明け話をするのは怖い。自分の大事なことや、柔らかいところをさらすのは怖い。それが現実でうまくいくと証明できなくて、今している最中のことならなおさらに。
だからこそ、そういう話を誰かがしてくれたなら、私もそれを宝物みたいに大事にしたいと思っている。
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