タイムマシーンがあったら
転職して2週間が経った。
前職では企画をしたり取材をしたり文章を書いたり、いろいろなことをしていたが、雑誌を作っていたこともあり私の肩書は「エディター」だった。
やりがいのある仕事だったし、憧れの仕事でもあったし、もっと極めたいと思う仕事だったけれど、今思えば「向いている」とは言い切れなかった。
編集者には全体を通してクリエイティブの完成度を見極められる俯瞰した目線と、細かい部分まで気づくことができる繊細さ、関わるクリエイターへのリスペクトを持ち、配慮できる人間力が求められる。
クリエイターのリスペクトは誰よりも持っていた自信があるし、そういうものに触れる瞬間の高揚感が大好きで、自分にとって天職だと思っていたのだ。
でも、俯瞰した目線や繊細さは、自分からは一番遠いものだったと思う。
だからいつも何処かで「もっと頑張らなければ」と焦り、プロを名乗ることへの罪悪感のようなものを持っていた。
新しい職場での私の肩書は「クリエイティブコーディネーター」だった。
もちろんファッションをコーディネートするのではなく、「企業における課題解決に向けて、共感を持って人を巻き込む仕事」だそうだ。
何かものを作るわけでもないから、形がなく曖昧で、肩書を考えるにも苦労したらしい。
そんなあまり一般的ではない職種だけれど、ありがたいことに入って2週間で仕事が決まり、ワクワクする大きなプロジェクトが動き始めた。
聞いて、共感して、言語化して、伝える。
そうか、私が得意なことってこれだったんだ。
仕事が決まった日、帰り道でふと、幼稚園児の頃を思い出していた。
その頃、母はよく泣いていた。
大好きな母に元気になって欲しくて、どうして泣いているのか、何が悲しいのか理解したくて、早く大人になりたいと思った。
こんな幼い自分の言葉じゃ母に届かない。
早く母の苦しみに寄り添って、自分の言葉で救ってあげたいと思った。
我が家は自営業かつ共働きで忙しく、母は仕事が終わってからも家事に追われていた。
だから、私は必死でタイミングを伺って、「一瞬だけ、お話聞いてほしい!」とアポをとる。
母だって私の話をいっぱい聞きたかっただろう。
「ごめん、あとでね」と言う母の顔はいつも悲しそうだった。
ほんの少し話せる時間ができても、油断はできない。
母が自分の話に耳を傾けてくれているうちに、伝えたいことを伝え切らなければならない。
「あのね、今日ね、幼稚園でね、えっと、」と話しながら整理している時間はないのだ。
何が起こって、自分がどう感じたのか、言語化して伝えなければならなかった。
途中でお客さんが来て、「ああ、ごめん、あとでね」と母が自分の元を去る度に「今度はもっと上手に話さなきゃ」と悔しかった。
先日実家に帰った時、私が幼稚園の頃に母に宛てて書いた手紙が出てきた。
「おかあさん、おしごとおつかれさま。おへやのそうじをして、せんたくものもたたんでおいたよ。だから、じかんができたら、おはなしきいてね。すこしだけでだいじょうぶだよ」
自分で書いた手紙なのに、わんわん泣いてしまって、自分の中にまだ幼稚園の小さい「割子ちゃん」がいるような気がした。
聞いて、共感して、言語化して、伝える。
私が今仕事にしていることは、幼い自分が与えてくれた能力だ。
こんな能力、なかった方が「割子ちゃん」は幸せだったかもしれない。
でも私は、この目に見えない、形のない仕事ができることが誇らしい。
できることならあの日に戻って、母へ手紙を書くあの日の自分を目一杯抱きしめて、「ありがとう」と伝えたい。