だいぶよく寝た祝日じゃった

ちょっと色々と思うことがあったので
優しい世界の話をしましょう

具体的に「死にたくなる夜」とか「心の底から人を嫌いになった日」のお話

「何言ってんだこいつ」みたいな目で見られてる気がとてもするのだけど、何故だ
みんな生きてれば年に一度くらいはそういう気持ちになるでしょ?え、ならない?

ああ、そっちじゃないのか
何をどう考えたらそれが「優しい世界の話」になるのかってことね

いやだってさ?
私たちが生きてる以上、「そういう感情のない世界」なんて不可能じゃない
仮にそれが達成できてしまったとしたら、そこにいるのは「今の人類ではない何か」でしょう

話がちょいと違う筋に行ってるから戻しましょう戻しときましょう

私がそこそこヒトにする話なんだけど
「嫌いなものは嫌いなままでいい」
ってのがあるのよ

そもそも嫌いに至る経緯があるわけだし
それそのものもその人のアイデンティティのひとつだし
何より自分にとってどうでもいい誰かに気を使って我慢するなんて、馬鹿らしいでしょう?

それはまあ感情の話をしたときなんかにサラッと触れたんだけどね
これも同じような話なんだ

「今死にたくなってる」のも「誰かを手を出してしまいたいほど嫌い」なのも
思うだけならなーんも悪いことじゃない

実際実行されてしまうと、ちょっと困る人がいるからな
でも私は「だとしても」って言うなら止めないし止められない
「私のエゴ」で、生きてくれた方が嬉しいし手を上げるのを躊躇える人の方が素敵だと言うことしかできないもの

でも思うだけなら誰が好き好んでこんな感情抱えるかーって、なっていいでしょ
そう思うだけの理由も感情もあるんだし

周りの誰から見てそこに不足を感じても
自分の理性が不条理を訴えても
誰かさんの感情がそれを弾き出したならそれはそれで真実よ

付随して、「そんなことを思ってしまう自分は善人ではない」みたいな感情が湧いたりもするのよね

そこにひとつだけ言うとしたら
「そんなことができるのは鈍感な阿呆だけだろ」
ってくらいか

いや真面目な話、思って実行に移さないだけでも立派だと思うよ?
我慢することを偉いとは言いたかないけど、自分がして嫌な気持ちになる可能性を汲めるのは十二分に善い人だ

それに私は悪口くらいなら場所を選べばいいじゃないって思う人だしさ?
だってそうでしょ、「好きなものは好きに話していい」けど「嫌いなものは自重しろ」とか何都合のいいこと言ってるの
「好き」も「嫌い」も感情に違いないのに、変に差別しないでな

もひとつ重ねて言うならあれだ
「なりたい自分」大いに結構!立派だね!素晴らしいね!
いやあかっこいい!すごい!

でも「今の自分」はそれじゃあないでしょ
「嫌いなものがあるかもしれない」
「暗い感情が湧くかもしれない」
「出来ることなんて数える程もないかもしれない」
だとしても「今の自分」は間違いなくそっちでしょ?

ハリボテの看板大事にするのもそら大切なことかもしれんけど
傷ついたら血が出るものが大切じゃないとは口が裂けても言えんよ

なにより私はソレをあなたより大切にはしてやれないから
ちゃんと自分の両手で抱えといてね

嫌いなものも、ダメなところも、いつかの死にたい日も
全部ひっくるめて自分だって言えたら、それはちゃんと善い人で立派な人に見えやしないかい

小綺麗で傷一つない聖人よりも、余程カッコよく見えるなら
それを目指すのも絶対に立派なことだよ