ノストラダムスも今は遠く

物語を摂る上で定期的にぶつかる問題がある。
俺の価値観と世間の価値観のズレなのか、それとも創作のセオリーとのズレなのか、どちらなのかは判然としないけれど。

ノストラダムスの大予言、世代ではちょっとないけれどまあこういうものが好きな界隈にいたらそりゃあ結構話には聞いた。
「信じているか」と言われると信じていないし、信じていたかと言われても信じてなかった。
でも、「もしそれが真実だった」としても「そうなんだ」と思うだけなのは知ってる。
この星が奇跡のような成立をしているということはよくよく言われているし、有名なことなんだと思う。でもこの星がすごく気軽に滅ぶものだということはあまり知られてないような気がする。
それは温暖化がどうのなんて話でもなく、戦争がどうのなんて話でもなく、大きめの小惑星がぶつかったり、近めの超新星爆発の指向がこちらに向いていたり、そういうもの。
天文学的確率というのが「ものすごく低い確率」を指す言葉なのだけれどその「この星が滅ぶものすごい低い確率」は常にいつまでもあるものだと、かの大予言のあとに知った。
知って、「この世界が滅ぶのに恐怖の大魔王なんて必要ないんだな」、なんて感想が出た。

だから、「世界を滅ぶ確率を下げるために誰かを犠牲にする」という展開を強要されると若干の反発心が残る。
「ここで犠牲を重ねたところで滅ぶときはあっけなく滅ぶだろ」と思ってしまうわけだ。確率を下げたい感情は理解できるが、それはそれこれはこれという感じに。
世界が滅ぶ可能性なんてものはある程度許容して、事が起きてから対処できるのなら対処する、それで充分じゃないかというのが俺の価値観。
可能性の全てを潰したいなんて言うのならそもそも「いつかの未来で子孫が核戦争のきっかけになりかねないのだから誰もを滅ぼしてしまうしかないのでは?」みたいなのは極論だけれど。
でもその極論と合理的な犠牲の違いは結局程度の差でしかなくて、じゃあ別にいいかって思う人がいても仕方ないやん。


なのでそういう展開を迎えたとき、自分は状況と空気が許すのなら正しさを放り投げてエゴを貫きます。