散歩日記 京都大阪
人と関わるの向いてないことを悟ったのでみんなのフォローを解除した。けど最終的にはこうなる運命だった。みんなごめん、そしてありがとう。精神の病は変えられないのでもう仕方ない。僕にはひとりでシコシコする文章が合ってるのでその方針で行こうと思う。
ということで、最近は電車に乗って、良い感じの景色がありそうなところを散歩している。ずっと家の周りしか散歩してなくて、行っても隣町とかだったんだけど、最近ちょっとずつ視野が広がっていって、電車で1時間とかかかるところまで行って探索している。これがまぁまぁ楽しいし気分転換になる。行ったとこ3つの記録を書いていきます。
①長岡天神駅から徒歩30分かかる、西代里山公園。
目的地に着いた時、最初目に見える景色はよくある公園って感じだったんだけど、奥に進むとハイキングコースっぽくなっていって、その最奥に素晴らしい岩を見つけて大興奮した。写真だとあんまり伝わらないけど、間近で見た時は「マジか(間近w)」って思わず声を出してしまうほど心に打たれるものがあった。「センスオブワンダー」っていう、自然に対して感動することの素晴らしさを書いてる本を最近読んでたんだけど、街中にある公園じゃ味わえないような感動が森や山の奥に潜んでるんだな、と自分で足を運んでみて気づいた。Xによくいる写真家が撮ったやつを見るのでは味わえない、自分で行ってみて初めてわかる体験だった。上二枚の、白いコンクリートとトンネルと自然、このシンプルな絵も好きだ。
長岡天神駅の近くのコンビニ。床が石でできてて綺麗で思わず写真を撮ってしまった。清涼感を感じさせて良いね。
長岡天神は「長岡天満宮」ってところもシーズンによってはこんな感じになって観光スポットなんだけど、こういうのは別に好きじゃないんだよな。お祭りとかあったら行ってみたいと思うけど、「これがええんやろ?」みたいな感じで大衆受けを狙った風景を押し付けられても、受け取り手の側の感情に自由さがないというか、自ら自然のメッセージをつかみ取りたいという気持ちで歩いているのに侵入的だな、と感じる。そういった狙った作品としての自然を全否定するわけではないし、良いものも多分あるけど、ここには僕が望む奥深いものがあまり感じられなかった。行儀よく整列した、前倣え起立着席の近代教育を受けた自然の姿は、価値が収束していてちょっと味気ないんだよな。
②島本駅から徒歩40分かかる、謎の山道
島本は、駅を降りた後の街並みも広くて綺麗だし、住宅街もところどころに空き地みたいなのがあって、息をするにしても気管に余裕がある感じがして良かった。これくらいの田舎感がちょうどのどかでいい感じだ。住宅街の奥の山に登っていくと、素晴らしい山道と、ぽつぽつと建った家が見えてくる。農業をして暮らしている人も多く、農地もちらほら。景色も都会では絶対に見れないものを見させてもらってる感じがして奥深い。ただ、傾斜があって歩くには力がいるし、アスファルトの一本道だから融通無碍感がないのがネック。こんなに山奥なのに、結局車に怯えて歩かなきゃいけないのはなんだかなぁと思う。
えっちすぎる…。金網の錆びとあふれ出そうな自然がえっちだ。これは写真に撮れてよかったと思う。さっきの白コンクリの橋といい、この金網といい、自然+somethingの組み合わせは無限大だ。その二つのハーモニーがどう調和しているかに注意を向けて散歩していきたい。
③淡路駅から40分かかる、城北公園と淀川周辺。
先ほどの二駅とは打って変わって流石淡路駅。駅を降りた後の景観が最悪である。(写真撮る気も起きなかったからネットから拾ってきた)不揃いな電線、カラーコーン、興味のない整骨院の広告、楽しさの欠片もない商店街、豆腐アパート…。自然が無く、都会なんだけど、都会の良いところ(娯楽施設がたくさんあるとか、面白そうな店があるとか)もほぼ無い。おまけに選挙の人が目をギラつかせてチラシを配ってくる。普通にしんどい。歩いてて何も楽しいことがない。高校生の頃、登下校の際、満員電車に乗っていたんだけど、その不快感に近いものを感じる。非人間的な空間に自己が閉じ込められている体験を、毎日のように繰り返していると人はどうなるのだろうか。視界が汚れていると、触覚が不条理に刺激されるかもしれない注意散漫な状態でいると、ちょっと心がすさんでしまう。chatgptに聞いたら、こういうところにいると、日常に対する興味や感動が薄れ、感覚が鈍化するとか言ってたんだけど、ほんとにその通りに思える。感受性が豊かな青年期を、毎日二時間の満員電車の往復で過ごしてしまった代償はでかい。もっと心が豊かになれる活動をたくさんしておいた方が良かったと後悔している。これからは、日常的なところで美しいものを愛でる精神を忘れたくないと思う。
駅を抜けた後もしばらく殺風景が続き、その後はカラスにゴミを荒らされてぐっちゃぐちゃになっていた住宅街を抜けると、青い空をバックに、ススキが風にゆられているのが見えて、軽く別世界に来たのかな、と思った。美しい…。ここを越えたら淀川が見えるんだけど、このススキが美しすぎてちょっと眺めていた。けどベンチもなく横断歩道だったので長居できなかった。こういうのをゆったり眺めれる街の設計にしてほしいと切に思う。
淀川が見えたんだけど写真撮るほどの景色ではないか…となった。その代わり、河川を上り下りする、この石の階段がちっちゃくて可愛かった。他の上り下りできるところは、上から下までちゃんと行ける大きな階段とかスロープになってるんだけど、ここだけ小刻みにちょんとあって可愛い。2人がギリギリ横並びできるくらいの横幅なのもなんか良いし、段差がなだらかで急じゃないのも良い。この階段からはなんだか優しさを感じる。上まで昇ったら何があるか見えないってのもなんか青空への階段っぽくて良い。
城北公園。このぐにょぐにょした柱は、景観を意識してつくられてるのかな。この構造物と自然の関係が、ちょっとアートっぽいなと感じるし、上に登ってみたくなる子供心がくすぐられる。ただ、芝刈りの機のうるさい音が二つも聞こえて鳥のさえずりも聞こえず聴覚的に最低なのに、上を見ると天井が黒ずんでいて、ベンチの下を見るとタバコの吸い殻が大量に落ちているから、落ち着くことができなかった。この空間、床も白だし、影だし、自然が近くないから火も安心だし、広々としていて近くに人がいないから、タバコ吸ってポイ捨てしてもいいやってなる心理状況をつくりやすくしてる説ある気がする。めっちゃスケボーできそうなのに「スケボー禁止」とか書いてるし、自然を楽しみたかったら他に木々が良く見えるベンチがあるから、むしろ喫煙者くらいしかここに用がないのでは、と思う。せっかく日陰で休憩できそうな空間なんだから、もう少し「ここに立ち止まりたい」と思えるオブジェクトがあればいいのになぁ。彫刻とか、床や壁に模様を描くとか。
あとは、大山崎駅からすぐに行ける天王山を登った。山って、足踏み外したら則死みたいなところが多くて、怖くて途中で引き返したくなる。見える景色も、「まぁまぁ、あるよねこういう山道」って感じだったから写真を撮りたいと思わなかった。山って、「達成感」のために登るっていう目的が強いし、「山の上から街並みを見下ろす」という価値の収束されたイベントがあるから、道中の景色に関して面白いものが見過ごされやすいのかもしれない。踏み外さないように足元ばっかり見ちゃうし、上るのに必死だからそこで立ち止まろうと思えないっていうのが、景色、空間を楽しむという視点ではアンチシナジーなのかもしれない。何回も登り慣れた山とかだったら、景色を楽しむ余裕とかも出てくるかもだけど。
最近、「街並みの美学」って本読んでて、建築とか都市構造みたいなものに興味が湧いてきた。「日本は看板とか多すぎて街並みが見れたもんじゃない。それに比べて西欧諸国は昼でも見れて美しい」みたいなこと書いてて、やっぱ日本では街並みに美を感じるより自然美を感じる散歩の方が良いのかなぁ、と思ってきている。けどその中でも、京都の街並みって良いよねとかは言ってるし、僕自信、美ではないかもしれないけど、この建築物とこの建築物が近くにあるの珍しくて興味深いなとか、なんでこんな変な形してんだろとか、そういう楽しみ方もあるから、そっち方面で何かしらを感じて心豊かに生きることもできるんじゃないかな、とは思う。
例えばこれとか。美ではないけど、なんでこんな構造してんの?ってなる空間とかは、好奇心がそそられてワクワクする。これを見に行くためにわざわざ電車乗るとかいうそこまで奇怪な性格してないけど、他の目的で行ったついでにあったら、なんか珍しいもの見れてラッキーってなる。そういった無目的な偶発的な喜びも、散歩の魅力だと思う。