職業選択の方向性 「痛み」に向き合う制作者について
私は芸術文化観光専門職大学というところで学んでいるのですが、「生と死の倫理学」という授業で面白い話があったので共有します。
ヴィクトーア・フォン・ヴァイツゼカー(Viktor von Weizsäcker)という19世紀後半から20世紀にかけて活躍したドイツ人医師の文章で
という記述があり、大学3年生の進路アンテナにこの文章が引っかかってしまったようです。
ヴァイツゼカーのいう、医療者になるという「職業選択の方向性」と舞台制作者になるという「職業選択の方向性」って似てるなあと思ったお話です。
ちょっと長いですが興味深い文章なので引用します。
(引用元が不明瞭ですいません。先生に確認して分かり次第編集します。)
そして、彼女の行った「最初の治癒行為」は単なる反射ではなく、痛みの知覚がひとつの決断を指示しているとヴァイツゼカーは続けます。
「企画制作・プロデューサー」にとっても痛みに身を向けられるか、背を向けるかという意味方向がフィットします。
誰の痛みかというと、作家・演出家・振付家など「アーティスト」と呼ばれるような作品の創造者の痛みです。痛みとは、彼らが世界に感じる違和感や疑問に向き合っている時の生きづらさ、そしてその価値観を世に投げかけるべく作品をつくる時の痛みのことと言えないでしょうか。
痛みやその真剣さはあまりに強く、隣にいる制作者(私自身)の生活/日常をも揺るがすことがあります。そんな時、ひょっと彼らの痛みに背を向けて、感情的に否定したり、そんな深く考えるなよと流してしまいそうになります。それでも彼らの痛みと、彼らが見据える社会の痛みから身を背けず、身を向けることができた時が<制作者になる>ときなのではないかなと思いました。
制作者といっても限りなくアーティストの近くにいるタイプの制作者の職業選択の方向性としてこのフレームは使えそうです。
動機なんてなんでもいい
普段から、どうして演劇をやるんですか?どうして制作なんですか?と聞かれることが多いですが、同じ文章内で彼は動機なんてどうでもいいと言います。
痛快でよかったので共有。
大学に入るまで、自分は知らない内に「痛み」から身を背けてしまう傾向にありましたが、大学で色んな人に出会って、色んな「痛み」のあり方や表出の仕方を目の当たりにしました。時には避けようのない「痛み」もあって、どうしようもないけどとにかく受け取って隣に居ることくらいはできるようになったはず。
アーティストと共に生きている制作者ってマジですごいなあ、、、と思いました。
最後に、ヴァイツゼカー先生の置き土産をどうぞ。