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風のにっき 20200506

これから書くことは、実体験からの、今。そして、これからのちきゅうにも、かかわることとして、わたしの見解を表してみようと思う。

二年前。わたしは、単独事故(事故は、自己©こじょうゆうやさん)の怪我から免疫が低下。そこへ菌が入り、両足が腫れ上がった。パンパンに浮腫み、像さんの脚のようになった。それから一日のほとんどを浴室で過ごした。なぜなら水中だと浮力があって唯一、腫れや痛みを忘れられる場所だったから。室内を歩くことすらままならず、食べられるものは、星の坊主さまの「たきたて」のお米で作った発酵玄米。もしくは、森田久美さんからの御縁で手にできた新米を土鍋で炊いたもの。それと味噌汁のみ。パンやお菓子などは、全く欲することはなかった。一日一食頂けたらいいくらいだった。自然に断食の流れとなった。病院へかかることを選択せず、半身浴と半断食をして、一ヶ月自宅療養をした。それは根底で、いのちのチカラ、自己免疫力、自己治癒力。なにより自分が決めた選択を信じたかったのが、大きな理由だった。また、パートナーを含む家族以外には、口外や相談することはせず、極力ノイズをなくした。自己との対話を日々実践し、体感するには、自宅療養が最適だとわたしは思った。レントゲンやMRI、血液検査をしてもらい数値をみて安心するため、客観的に症状を捉えるために、病院や東洋医学を利用した。家族の支えや、目に見えないもののおかげもあり、完治することができた。

危機的状況になったとき、また、日頃なにげない暮らしのなかでも。真に頼れるのは、軸となるのは、己の心の声だ。そして、その自己との対話によって周波数、振動、波動、波。どんなことばが適しているのか、今もまだ、わからないけれど。今は波と、表すことにする。その波は、自分以外のものや人に、響いていく。共鳴していく。それは、何かを崇めたから与えられる、感じられるものではなく。すべてに対等なもの、誰にでも与えられているものだと、感覚的にわたしの場合は体感した。その感覚は、誰がなんと言っても、揺るぎないものだったし、今もそうだと思っている。

自己との対話から、自分を信じること

自己との対話から、自分を信じること。その行為は孤独なようで、護ってくれている纏うすべてのもの、御先祖様や脈々と受け継がれしもの、すべてが一体となり、全体となってチカラはそそがれる。大いなる存在。源とも言うのだろうか。そこと、つながる。これは、真の信仰とも、言えるのではないだろうか。その流れを経験、体験したからだろうか。療養していたときは、痛みが伴ったし、どうしても渦中のときは目処がないために「いつになったら、良くなるのか。」と途方に暮れてもいたけれど。ずっと、そんなことばかり考えてもなかった。ただただ、自分は今、どうすれば快方へ向かい、心地良くなるのか。その問答の繰り返しだった。

二年前、ウィルスではないけれど、自分の身に起きたことは、予行練習だったのか!?今のちきゅうの状況にも、置き換えられるんじゃないかと、なんとなく感じている。

一日のうち、そんなコロちゃんのことばかり考えてないで、わたしは。その環境に在るから、影響しないことはないけれど。はじめから、戦う選択はなく、共に存在していくという姿勢は、やっぱりわたしは変わらない。除菌や抗菌しても、ワクチンができても気休めでしかならない。ただ、それが安心するなら、そうしたっていい。自己責任、自由意志だ。

ただね、そもそも、いのちって、そんな軟やない。元々、あるねん。如何なる状況や状態、どんな人にでも平等に備わってるねん。完璧に。そこに、きづくか、きづかないか。(ROLANDみたいになりました。)

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