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星のにっき 20200605
「人として生きること」、「ともに生きること」
これは、暗黒時代の十歳〜二十歳を経た、わたしにとって、今でも大きなテーマとなっている。
暗黒時代、どのように過ごしていたかというと、ただ、空虚。無感情。無感動。頑なに固く心を閉ざしていた。生きているのか死んでいるのか、居るのかいないのか、わからないような。暗いトンネルを手探りでなんとか、ただ歩いている日々だった。特に何があったわけでもない。劣等感、無価値、虚無感で自分を、そのように創り上げてしまった。誰にも、なにも、わたしに嫌なことをするようなことはなかった。これは、わたしの、一人孤独悲劇を演じていただけだった。これにきづくのに、随分時間を要した。
二度目の暗黒期は、仕事でわたしに対してのクレームがあり、「はたらくとは」、「わたしが、わたしとして、生きるとは」という、壁にぶち当たったときだった。どん底だった。けれど「そもそも、わたしって、どう生きたいん?」と、素朴な疑問が降ってきた。と同時に「わたしは、わたしとして生きる」意識が芽生えた。
「わたしが、わたしとして生きる」活力が、ようやく湧いて出てきたのだった。
そのときに出逢ったのが、パートナーだった。それも、七月七日の七夕の日に。我ながら、ロマンティックなシナリオだ。
初めて逢ったときには、何も感じなかった。メールをしたり、会ってどこかへ出掛けたりしたときは、家族ぐらいの安心感があった。とどめとなったのは「どこかで、聴いたことのある声」だった。シナリオを思い出す、鍵となった。
「この世界に、純粋な、〇〇人は、存在しえません」文化人類学の先生から教わったこと。大陸を渡り歩いていたから、色んな国の血が掛け合わさっている。魂レベルで言えば、国も、他の惑星もまたいでいると、わたしは、自覚している。
どんな人にも、シナリオがあり、
生まれてきたら、死がある。
今年のニャンコロ。どの国の、どんな人も、同じ条件、状態、状況を共有した。
「あいま」をとり、互いに互いを想い合い、そして、みんな対等だった。
「人として生きること」とは
なんなのか。
個は、
それぞれがそれぞれに、
尊く、
信頼し合い、
支え合い、
安心して過ごす。
個は、弧。
まあるく在れることを、知っています○
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