『偽る人』(揺れる) (第66話)
嫌なところばかり(2)
何かを頼む時の言い方も、直らなかった。
卓雄がお茶を入れている横で、
「私もお茶がほしい」
と房子が言う。また、子供みたいな言い方を、と思う。言葉が分からないわけではあるまい。他人には、恐ろしく丁寧に言えるのだから。
「『お茶を入れてちょうだい』と、頼めばいいでしょう」
と言ったら、
「お茶を入れてください」
と、オウム返しのように、やさしくなく言う。まったく・・。
「悪いけど、お茶を入れてくれる?」とか、普通の頼み方ができないものか、と思う。
気分が悪い時の房子は、外から帰った時の荷物といっしょに、お茶を自分で入れて、二階に持っていこうとする。
「あ、ちょっと待って。持っていくから」
と、恭子はパソコンを中断して階段のところに行く。
ジャケットやバッグと一緒に、お茶が入った湯呑みを持って、恭子は階段を上って行った。房子は後から這うように上ってくる。
両手が空いていたって大変なのに、房子がお茶ひとつも持っていけないことは分かりきっている。悪いけど、持ってきてくれる?と頼めないのだ。遠慮ではない。意地になっていた。
恭子が大嫌いな房子の言い方に、
「○○してもらおうかしら」というのがあるけれど、これも、何回言っても直らなかった。
昔の生徒さんが車で迎えにきてくれて、お宅におよばれした日もそうだった。
恭子が手土産を買いに走り、用意をする。
靴を履くのに手間取って、ようやく車に乘った房子が、
「杖を持ってくるのを忘れたわ。持ってきてもらおうかしら」
と、見送りのためにそばにいる恭子に言う。
どうして、何度言っても分からないのだろう。房子は「○○してもらおうかしら」という言い方が丁寧だと思っているようだが、これは、上から命令する強く嫌な言い方だと、何度言っても分からない。
帰ってくると、房子はぐったり疲れている。お茶を飲む?と訊くと、
「お水をもらおうかしら」
と房子は言う。恭子は房子のこの言い方を聴くたびに、胸がひりひりした。
だいいち、「お水をもらおうかしら」ではなく、「今日は楽しかったぁ。いろいろありがとう」のはずではないか、と思った。
その後疲れて眠った房子は、夕飯の時に、いつものように、ほとんどしゃべらなかった。帰ってからの恭子とのやりとりに、機嫌を悪くしていた。
卓雄が房子にその日のことを訊いたり、恭子が亜美に4人目の子供が生まれる話をしても、黙っていた。いつもの通り、暗いムードの食卓だった。
「生徒さんと、どんな話をするの? 家でこんなにしゃべらないのに」
「学校の話・・・」
房子は、それにはポツリと答えた。
そうなんだ。生徒さんや房子が楽しいのは、そういう話をするからなのだ、と思った。
房子が他人と楽しく話をする様子が、どうにも想像できなかった。房子はいつものように、他人には人が変ったように、やさしく、ほめちぎるから、相手も楽しいのだろうか。
その後また、嫌なムードの流れになった。話を追求したり、批判的なことを言うと、房子はすぐに黙る。嫌な顔をして、黙り続けた。
房子が二階に上がると、卓雄が、おかあさんにいくら言っても無駄だよ、聞いていて嫌になる、と言った。
もう無駄だから、そんな話はしない方がいいなんて、それは、親子じゃないから言える、と恭子は思う。親子だからこそ、こんな中途半端な状態は辛い。
そうしたら、パソコンの碁のゲームの説明を頼まれた卓雄がカリカリした顔で二階から降りてきた。そのゲームは、凛が房子に送ってくれた、新しいCDに入っている。
卓雄は房子が何度言っても分からないので、苛立ったらしい。
でしょ? と恭子。ゲームくらいならいいけれど、無駄だと思っても、突き詰めなきゃならない話もあるのだ。
同じようにげんなりしながらも、恭子は卓雄にありがとう、と言わなくてはならない。
恭子の立場を、卓雄は少し理解したようだった。
分かっていたことではあったけれど、恭子は房子と同居を決めたことを、かなり後悔していた。
登場人物紹介
恭子:60代の主婦。兄嫁と折り合わず、家を飛び出してきた実母に苦しみ、「反感」と「情」の間で心が揺れ続ける。
卓雄:恭子の夫。定年間際のサラリーマン。
房子:恭子の実母。気が強いが、外では決して本性を出さず、優しく上品に振舞う。若い時に夫(恭子の父)を亡くし、塾を経営して蓄えたお金を偏愛する息子に貢ぎ続ける。
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