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【小説】ハリコロール

 私は彼のことを思うと、胸がはりさけそうになる。気持ちの問題でなく、物理的に。

 私は喫茶店で働いており、彼というのはその常連のことだ。彼は週に二回店にあらわれ、ブラックのコーヒーを必ず二杯頼んだ。彼の目線はいつでも手元の本に向いていて、ほとんど事務作業のように、右手だけを動かしては一定のリズムでカップを口元に運んでコーヒーを飲んでいる。彼の読む本はいつ見ても違うもので、ジャンルも様々だった。自分が伸びるなんちゃら、みたいなタイトルの自己啓発本だったこともあれば、本をあまり読まない私も知っているような人気作家の本、ときには外国語(英語、イタリア語、そして何語なのかさっぱりわからないミミズのような文字)が並んでいることもあった。
 ある日、彼が事務作業的な手をうっかりすべらせ、コーヒーをこぼしてしまった。幸い、机の上に転げただけでカップは割れなかったのだが、本の端が軽く濃い茶色がかり、まるで古書のように染まってしまった。咄嗟に駆け寄ったのが一番近くにいた私で、すみません、と顔を上げた彼と目があった瞬間にそれは起きた。ぐぐぐ、と内臓をこねくり回されているような感覚。私の身体は気付いたら粘土になっており、無邪気な子どもにもてあそばれているようだった。息が荒くなり、胸が潰されているように痛む。耐えられず、前傾に体勢を崩しそうになってしまう。しかしそれと同時に彼と目が合わなくなると、少し楽になった。コーヒーをこぼしたことによって彼も動揺しており、私の様子がおかしいことには気付いていない。私はよくわからないまま、とりあえず、あまり近くにいてはいけないのだと悟り、布巾をお持ちします、とキッチンへ走った。私と入れ違いになるようにしてアルバイトの沙紀ちゃんが布巾を彼に持っていくのが見えた。
 私がキッチンへ走った後、胸を押さえながらどうしたのか、いつ回復したのか、それ以降の光景をうまく思い出すことができない。走馬灯でも見ていたのかもしれないが、でも、多分なんとかなったのだろう。人は思っているほど人に興味がない。仕事中などという条件下では特にそうだから、きっと、私は私をなんとかしたのだ。

 とにかくその日から、彼に一定距離以上近づくと、私の胸が彼にはりさかれそうになることがわかった。うっかり目なんて見てしまった日には、すぐに人生のEDロールが脳に流れ始める。
 私はそのうち彼に殺されるのだと思う。それはやっぱり物理的に。私をはりさくことなど簡単なのだと言っている。彼ではなく、彼の雰囲気が語るのだ。何が私を殺してしまうかはわからない。ただ、彼に会うたびに寿命が少しずつ縮まっているという感覚はあって、このまま彼と顔を合わせ続けると、そのうち私は胸から血やら内臓やらを飛び散らしながら死ぬのだと思う。彼のことを、何か良い呼び方はないかと思って考えたのだが、デスボーイやヘル男やら親しみを込めて死神くんやら、私にはあまりにもセンスがなかったので、彼は彼になった。


「それって、ノロイかな」ミキモトがビールを飲みながら、好奇の目で言った。ノロイ。私の脳裏に、わらでできた人形が浮かぶ。ミキモトはそれを見越したように、たぶんそういうのじゃない、と笑った。
「でもノロイって、ノロイでしょう。私、誰かから恨まれてるのかしら」
「恨まれるとしたら、彼氏にじゃない?」ミキモトがくしゃみをした。
「今くしゃみをすべきなのは私の彼氏であって、あなたじゃないでしょう」
 それもそうだ、とミキモトが鼻を触る。恨まれるとしたら、と考えてみるが、彼氏のタカアキはカタツムリのような神経を持っている男で、私がミキモトとこうして時折同じソファでくつろいでいることを知っているわけもないと思う。
「彼に会うと、何かが減るの」そう問われて私は首をかしげる。
「減ってない、多分。痛みが増えているくらいで」
「じゃあヘル男というよりは、ヘラナイ男だな」ミキモトがにやりとする。私はミキモトの口元が好きだ。悪人面というと怒るけれど、アシンメトリーな口角の上がり方をする。
「面白くない。ていうか、その名前はボツだって」
「冗談だよ。まあ、でも解決法は簡単だ。仕事を辞めればいいだけ」
「辞めないと思う」
「だよなあ」
 私は、ミキモトがゲームセンターで一人、誰のためにでもなくただの意地でとったというプーさんのぬいぐるみを抱きしめながら、ついていないテレビ画面をじっと見た。辞めないと思う、というのはこれ以上ないくらい素直な言葉だ。喫茶店のホール。別に仕事に執着しているわけではないが、そこそこ長く働いているし、人間関係も申し分ない。ただ殺されるかもしれない、というだけで人の良い店長に迷惑をかけるのはためらうものがある。ミキモトはよく人の気持ちを汲み取るのが得意で、たまにそれが嫌になることがある。察してもらうのはありがたいが、口に出して言ってみたいことや、言わなくては何かと消化が難しいこともそこそこあるものだし。その点タカアキはすごい。察するという能力がなくて、口癖は「どういう意味?」だ。タカアキとミキモトを足して二で割れば、ちょうどいいのかもしれない。いやそれだと、魅力は薄れるのかもしれない。多分私は極端な人間に何かと惹かれるような予感がある。

 極端といっても、殺されたいわけではない。今日もまた、ガラス越しに彼が来店しそうなのがわかると奥に引っ込むし、彼が手をあげたり、立ち上がろうとしたときはすかさず遠くのテーブルに水をつぎたしにいく。一定距離を保っていれば、彼の顔を見てもあまり問題がない。ただし、いつもぼんやりとしか見えないので、彼の顔をよく知らない。それに、彼は見る度に顔が異なっているような気がする。二十代~四十代、髭があった? なかった? 胸をさかれようとしているのだから、彼の顔がいつも異なることくらいでは最早驚かない。でも彼であることはわかるのだ、どんなに顔が違っても。
 レジの方から、ふふふ、と沙紀ちゃんの鈴虫が鳴くような愛想笑いが聞こえて見ると、彼が会計をしていた。そして何か一言二言、やり取りをしたようだった。私の胸をはりさく男は、沙紀ちゃんにとってはただの一人の客で、当然ながら、話だってまともにできるみたいだ。彼の毒は私にしかきかなくて、私が特別。それがなんなのだろう。彼のことを考えても胸は痛まないが、やっぱり彼に少しでも近づこうものなら胸が痛む。彼と何を話したのか、聞いても良かったはずなのに、私はその日、沙紀ちゃんの顔すら見れずに仕事を終えた。

 夜、タカアキと短い電話をした。次の連休で、軽く遠出をしようという話だった。といっても、どこに行きたいだの、何をしたいだの、そういう言葉はお互い出さない。計画性のない遠出になることが予想できた。北か南かくらいは決めておかないか、という話になり、口頭でじゃんけんをして南に決まった。
 タカアキと付き合って二年になる。何かの関係性を全て数字であらわすなら、ミキモトとは一年で、彼とは三ヶ月ほどだろうか。あまり意味も区別もすることではないかもしれないけれど、私の人生では女よりも男の方がよく関わっている。よく、というのは量も重さも含んだ言葉だ。
 私が誰かに恨まれているとしたら、それは女なのではないか、と漠然とした思いが浮かんできた。男をよく見ていた分、あまり周りの女を意識していなかったかもしれない。タカアキは私と付き合う直前まで彼女がいた。同時並行はしていないけど、付き合う付き合わないなんてものは無理やり形式で線を引いただけで、意識の上で並行していなかったというのは言い難い。
 私はタカアキの元彼女を見たことがある。たまたま映画を観にショッピングセンターに行ったら、タカアキと彼女が歩いていた。日が沈みそうな時間で、タカアキは夜のシフトもある仕事をしていた(今もしている)から、帰って行くタカアキを見送る彼女の図が遠くからでもわかった。彼女は振っていた手をゆっくりと落とすと、私のいる方にゆっくりと歩いてきて、まさか、と思っていたらそのまま同じ映画を、近くの席で観ることになった。映画中、私はちらちらとその姿を斜め後ろから見た。目が大きく、唇がはっきりした顔立ちをしていた。感動するシーンでは目をこすり、ティッシュを取り出して鼻をすする。二時間ちょっと、映画と彼女を比較するように観た。私は少しも涙が出ず、日記の映画記録には星を三個つけた。
 タカアキにとっては時間をかけていたつもりかもしれないが、彼女にとってはあまりにも突然に、タカアキから別れを切り出されたはずだった。女として予感はあったのかもしれない。もしくは全くなくて、タカアキと自分が見ているものがいつからズレていたか、とそのとき初めて苦悩したのだろうか。映画で泣く彼女を観たとき、多分、彼女はタカアキのことが好きなんだろうなと感じた。それこそ私の女としての勘でしかなかった。でも、きっと自分の男を大事にする女だと思った。
 お風呂を沸かしている間にやってきた疲れによる微睡みの中で、私が彼女のことをこんなに考えたのは、タカアキと付き合い始めてから初めてであることに驚いていた。それも、自分の胸がはりさかれそうになっているという理由で考えているのである。自分の身の危険でも感じないと、私はあの彼女のことを考えないのかと思うと、少し恥ずかしくなったりもした。私は彼女に謝る筋合いすらないけれど、悪人も死に際に神様にすがりたくなるものなのかもしれない。

 彼女はその後、夢の中にもあらわれた。
 彼女と私は、部屋の中で二人隣同士に並んでパイプ椅子に座っていた。真っ白な空間の中、彼女は映画でも観ているようにじっと斜め上を見て、時折涙を流した。私も真似をするように斜め上を見てみたが、やっぱり何も見えなかった。私が退屈を紛らわすように落ち着きなく腰を上げたり、彼女の顔を横目で見ていると、訝しげにこちらに振り向いて、「お間違えじゃないですか」と言った。私は意味がよくわからず、やっぱり落ち着きなく周りを見渡していた。何かが見えるはずだから、と首を目一杯上に上げて、目を細めたり見開いたりしながら。彼女はそんな私を戸惑うように見ていたが、やがてまた何もない空間に目を落としていった。


 目が覚めると、酷い倦怠感があった。頭を軽く抑えながら、私は顔も洗わずに冷凍庫を明け、コロッケを取り出す。いつだったか、スーパーで格安だったから買って冷凍庫に入れっぱなしだったもの。朝から食べるには重過ぎるけれど、なんだか無性に何かを揚げたかった。
 ぱちぱちと油の温度を菜箸で確かめ、ゆっくりとコロッケを突っ込むと、炭酸が抜けるような音がした。炭酸と油はよく似ていて、もしペットボトルの中に煮えた油が入っていて間違えて飲んだらどうしよう、と考える。そんなことは絶対に起こらないけれど、喉を焼いたら、と私は恐くなってしまう。空腹はいきすぎると、近くに死を感じるものだなと思う。早めに夜ご飯を食べたり、ときには抜いたりして。寝る前は平気でも、寝ている間に胃は活発に動きすぎて、起きた瞬間、ああ、おなかがへった、と爆発的に思う。そしてその空腹は普段の笑える空腹を通り越していることもあって、このままだと、死ぬかもしれないな、と思う。
 彼に殺されるかもしれない、と思うのはそういう感覚に少し近い。

 私が仕事を辞めない理由には、慣れ親しんでいるからという理由の他に、ヒットメーカーだとか、未来を読む人になるのは難しいから、というのがある。簡単に言うのなら、私は何かを思いつく職業につきたいのだ。しかし今まで、豆腐を潰すほどの手ごたえもなく、簡単に数社落ちている。
 商品企画がやりたくて、と面接で言ってみたら、社員は微笑んで頷いたけど、簡単に言いやがる、と顔に書いてあった。そうして、「希望者が多いので激戦ですよ、他にも募集職種がありますよ」などという。こちらはこちらで、募集を出しているなら入れると思っているし、あちらはあちらで、募集を出せば優秀な人材と勝手に出会えると思っている。そして、すぐにミスマッチに気付き、「それは私(あなた)じゃない」と言う。私は喪主のような顔で家に帰り、黒いスーツを脱ぎ捨てた。やる気はスイッチの形をしていないことを、その頃から知り始めた。
 でも、私は何かを思いつく仕事しかやりたくなかった。それができないなら、コーヒーをお客さんに出すくらいが丁度良い。二つ目のコロッケを食べて胸焼けしながら、そんなことを思った。さらに言うのなら、仕事内容はその、商品企画のみでなくてはいけない。私のやりたいことは企画であって、雑務でも、愛想笑いでも、傷のなめ合いでもない。
「サラリーマンを辞書で調べたら、俺が出てくるんじゃないかな」ミキモトがそう言って自傷的に笑っていたのを思い出す。ミキモトにはタカアキとはまた違う鈍さがある。いや、鈍いというのではない。それが当然のことだからと受け止めすぎるのだ。私はいつもミキモトの話す所謂「サラリーマン」な話に憤怒したが、でも組織だし、上司なんだから仕方ないんだよね、と言う。ミキモトのおかげで、私の思う会社の像はどんどん汚れて、ヘドロのようになっていく。ミキモトに窘められようと、私は治まらない。「そんなの仕事じゃないんだから、断ればいいのに」と言うと、「それも仕事なんだよ」と言う。「君が言っていることは正しいんだけど、正しいだけじゃ駄目なこともあるんだよ」とあまりにも穏やかに笑う。それなら私に話さなければいいじゃない、と冷たく答えると、代わりに怒ってもらうのは嫌いじゃないから、と口角をあげた。


 たまにこげたパンを噛んだような気分の悪さがするときがあって、死にたいわけではないけれど、こういうとき、彼の顔を思いっきり見てしまう。誰にも迷惑をかけない、私の胸がはりさけそうになるだけの自傷行為だ。押しつぶされそうな私の内臓を想像すると、絡まった蛇が浮かんだ。またやってしまった、と私は焼けそうになった胸を押さえた。
 休憩室で、震える手でようやくペットボトルをあけ、ゆっくりと喉をうるおす。落ち着かせるように、タカアキと南に行くことを考えてみるけれど、南のどこに行くのかさっぱり検討もつかない。ミキモトはまた今日もうちにおいで、と言っていたけれど、ミキモトに会って何を得るのか、得るとしても、得なくてもいいや、と思うときがある。

「お疲れ様です」
 沙紀ちゃんがいつの間にか後ろにいて、私は驚いて振り返る。沙紀ちゃんがブランドバッグの横ポケットから猫の柄がついたポーチを取り出していた。
「そういえば、あの、いつも本読んでるお客さん。今も来てますけど」沙紀ちゃんは私と二人っきりになると、場を繋ぐように話し出す。沈黙を全て悪だと思っているような節があるのかもしれない。私は何事もないように振舞いながら、声だけは動揺を隠せずに聞こえるか聞こえないかの相槌をうった。
「何回か、話したことはあったんですけど、さっき、電話番号渡されたんです。びっくりじゃないですか。本当にあるんですねこういうの」
 こわぁい、と沙紀ちゃんが大して恐くもなさそうに言う。


 私は、私ばかりが何かを持っているといつも思っている。何かを思いつきたいのは、何かを思いつけると心のどこかで思い込んでいるからなのだと思う。でも、そもそも企画職が向いていないという可能性もある。そんなことは冷静に考えればわかる。それに限らず、大抵のことは、冷静に考えればわかることばかりだ。どうしていつも、思い込んでしまうのだろうと悲しくなる。彼はいつも、沙紀ちゃんとシフトが同じときにばかりに来ていたじゃないか。ルーチンなら明日も彼は来るはずだが、もう来ないかもしれない。
「もしもし」五回の着信コールの後、寝起きの声がした。タカアキの生活リズムは普通とは違う。無論、仕事を中心として。
「あのね、もしも、とっくに飲み干した後のペットボトルの中身が、熱い油だったらどうしたらいいんだろう」私は喉元をさすった手を、ゆっくりとお腹へ下ろしていく。
「最初は炭酸だったはずなの。でも、後から胃の中でぐつぐつ煮立って、油になっちゃうの。でも、それを煮立たせてるのは、誰でもなく私の胃酸なのよ」
「それ、どういう意味?」タカアキは面倒そうに、ではなく、本当にただ、そう答える。

 ふと、彼に会えなくなったら私は不死になるのかもしれない、と思いつき、なんだ、そんなの嫌だな、と身震いする。私は彼の耳元で、死に瀕したまま呟きたい。あなたは私を殺すくせに。彼の腰にすがりつくようにして、どうして私を殺すの、と問いたい。正しくなくてもいいから、答えが知りたい。私を殺すかもしれない人なら、私の生について何かを与えてくれるような、そんな気がしてしまう。彼にはまだ会わなくてはいけない。きっと私はもう少しだけ、はりさけそうになる必要があるのだ。



2018年4月 お題『コロッケ』『はりさける』   
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もっと書きます。