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【小説】田とのこと

 田崎が彼女と別れたので、もう私は田崎の家に気軽に行けなくなってしまった。
 都心から離れた駅の改札を出て、そこそこ歩くところにあるその部屋は、私が毎月ぎりぎりで住んでいる阿佐ヶ谷の洋室一間のアパートより断然に広かった。それでいて家賃は同じくらいというんだから、東京は恐い。就職と同時に地方から出てきてもう三年は立つが、鬩ぎ合う電車に乗る不快感を甘く見ていたことが一番のミスだったような気がする。しかし、不快感を盾に、会社の近くに住まなくてはならない理由が簡単に作られてしまったのもまた、イラっとする。

 広い洋室の隅には、不愛想な出目金が泳ぐ水槽があった。何にもお洒落じゃない、本当にただただ、水と出目金だけが詰められた四角い箱。初めて田崎の家に行ったとき、そのなんとも言えないシュールさに吹きだして笑い出した私に、おい、出目金に謝れ、と笑った。私が簡単な夕飯を作って食べた後、さらに追ってご飯を食べるようにセックスをした。合コンを含めて二度しか会ったことのない男。彼女はいるんだけど人数合わせで、と苦笑いではっきり言っていた男。そんな男と、こんなに自然にセックスができるのだ、と私は電撃にうたれたかのように感動した。深みなんてなくって、一杯飲み用のインスタントコーヒーを思わせた。暗い部屋にスマートフォンの画面がぼんやり光る。終わった後すぐに彼女に連絡を取る男が、私の手を握りながら隣で寝転んでいた。

 田崎と私は寝るとき、手を繋ぐ。本当は繋ぎとめておくことができないので、その分力をこめている。しかし本当に繋ぎとめている気持ちなんて一切なくて、いつだって手軽に味わうことだけを思っているのだ。朝起きるとその手は当たり前のように離れていて、身体も抱き合っていたはずなのにお互いそっぽを向いている。寝ぼけた頭を抱えながら、私は時間をかけて長い電車に乗って、家に帰る。家賃の高くて狭い、私の家に。
 田崎は全然チガウ、とよく思う。私が田崎と一緒になることはないし、田崎は私を好きにならないと言う。口や頭でいくらでも言い続けられる。しかし心地の良い感覚だけが頼りなさそうにつま先立ちで先立っていて、ぷるぷるするつま先をどうにか留めなくてはいけないので私たちはお互いを求めてしまう。

「この燃えてるアパート、市佳が住んでるところの近く?」
 シャワーを浴び終えてすぐに緩いTシャツをかぶり終えると、田崎が点けっぱなしだったテレビ画面を指す。ニュースキャスターの後ろで黒い煙が勢いよくあがっている。
「駅挟んで反対の商店街の方かな」
「へえ」
 あんまあっちの方わっかんねえ、と田崎が呟く。田崎は私の家に来たことがないので、あっち、というのは狭い意味ではなく、駅全体のことを指している。
 全然チガウ、とわかっている。違わなくなってしまうと、きっと私は田崎に深入りする。それもわかっているので、田崎はやっぱり全然チガウ、そうでなくてはならなかった。しかし同時に、いつか違わなくならないか、とも無意識のうちに思っている。それは期待ではなくて、ただ映画を見ながらこういう展開もあるだろうか、と想像してみるだけに近い、と思う。映画みたいに、絵にはならないが。

 田崎に会うのは週末だけだ。土曜に田崎は大抵彼女と会っていたから、実質日曜日だけだ。日曜に早起きして、田崎の家に向かって、早めに家に帰る。田崎の家から私の会社は遠すぎるので、泊まるようなことは考えられなかった。金曜日の夜、それとなく連絡をとって、ああ、暇なの? じゃあ行く。と伝えあう、それだけで私の日曜日が埋まる。隙間があるから、そうやって埋まってしまうのだ。

 平日の私には、夜の数時間しか隙間がない。帰りは大体十時をまわる。木曜日あたりにはふらふらになりながら玄関に座り込むことが多い。その度に、自分の家の閉塞感と布団の生地の粗雑さに、あたりたくなる。
 私の部屋が狭く感じるのは、私が田舎出身で広い家になれていることと、廊下がなく、玄関を開けたらもう家、という正方形の作りの所為だろう。しかしベランダへ降りる窓もあれば別で小窓もあり、そこそこ解放感はある。なんていったって洋室なのが気に入ってる。畳なんてあってしまうと、たまに電話する母親の顔なんてものが回想シーンのように思い起こされて、色々としみじみしてしまいそうで嫌なのだ。
 いつも私が身体を縮こめるスペースは決まっている。クローゼットの向かい側、せんべいのようにぺらぺらなクッションの上に、電気も点けずに座り込む。買ってきた惣菜のビニールの擦れる音と、割り箸の音。だんだん暗闇に目が慣れてきた頃、それはあらわれる。
 田中くん、とそれに名付けた理由はあまり覚えていない。田崎と出会うより前から居たので、「田」がかぶったのは偶然だ。田中くんは私の部屋のクローゼットに無償で住んでいる。人ではないらしい。いや、人なのかもしれない。人という言葉が、生きているものを指すのだとしたら田中くんは人ではないが、人間的な形として分類されるなら田中くんは人である。
 田中くんは前髪が長く、いつもよれたロンTを着て現れる。仕事に疲れ、布団に倒れこみたいのを我慢し、ぼうっと疲労で茹だりそうな脳みそに限界を感じ、あ、今、視界がぼやけているかな、と感じたときがクローゼットを開けるのに適している。田中くんの顔の細かいところは勿論暗いのでよく見えない。しかしなんとなく、いつも同じ表情を浮かべているような気がした。
「なんであんなこと言われなきゃいけないのかね。肥後係長なんて、いつも女を見下しててさ。そのくせ女がいないとむすっとするんだよ。お前のために女でいるわけじゃねえっつうの」
田中くんは何も話さないので、私はただただ愚痴をぶつける。田中くんは、ぼやけているが故に、オアシスがみせる幻覚の水のように私を潤した。

「大変だったね」
 は、と目を覚ます。またここで眠ってしまっていた。身体が鈍い痛みで悲鳴をあげる。遮光性の高いカーテンの隙間から光が差し込んでいた。私の夢の中で、たまに私を慰める人がいる。それは田中くんであると、私は思ったり思わなかったりする。田中くんは話すことができないし、私が田中くんに話してほしいと願っているかどうかも曖昧だ。ではそれ以外、例えば田崎あたりなのかというと、それもわからない。大変だったね。愚痴に対しての言葉だとすれば、あまりにも正答過ぎて響かない類の返しだ。

 田中くんのことは、田崎に話したことはない。田崎はそういうタイプではない。快活に笑って、そのときどきのネットで人気の話題を会話に盛り込むのが田崎だ。知っている、知っている、と思いながら私は笑う。田中くんの話を田崎は知らない。それでいて、私のこともきっと知らない。
「市佳ちゃん、かわいいね」甘ったるくわざと出された声を思い出す。田崎の手つきは全てに慣れている、と言いたげにいつも動く。私は受け入れる。素直に、気持ち良いときはある。でも、解き放てきれなくって、終わる。それは田崎に彼女がいるからかもしれない、と思ってしまったとき、全てが冷める。その事実ではなく、思ってしまった私自身に醒めてしまう。こんなんじゃ、田崎と一緒にいても無駄だ、と思う。しかし日曜日になると、その隙間がまた埋められて、記憶を亡くしたように私は長い時間をかけて電車に乗る。しかしもう、終わりだ。自分で終わりを決める前に、事象がゴールを作った。

 田崎が彼女と別れて、私は田崎との連絡を完全に絶った。それと関係があるとは思えないが、しいていうなら私の持っていた隙間のバランスが壊れ、身体を壊した。ルーチンが崩れたので、仕事をやめて、極めて現代人間的な暮らし方もそこで終わってしまった。しばらく休みなさい、と家族でも恋人でも田中くんでもなく、医者が言ったので、私はあまり実感がなかった。
 暗い部屋で私はまた縮こまる。今度は夜の隙間だけでない、ずうっとここにいられる。クローゼットはもう開けっ放しで、そこからは黒い雲のようなものが吐き出されているように見える。うごうごと広がっていくその中に、田中くんを見つけた。いた。良かった。

「ねえ、あのね、なんでだろう。いつも私が思いきるより先に、全部終わったり、変わったりしちゃうの。キリの良い場面に、立てないの。流れて流されて、いつも誰かの手から放り出されたり受け止められたりしちゃって。ボールみたいだなって、思う。ドッジボールとか、バスケットボールとか、そういうゲームに使われる類の。それでいて、はじきだされたな、と思ったらもう篭の中で、似たような塊と一緒に笑って、同じみたいなフリして。でも、また誰かに持ち上げられて、飛んでって、受け止められて……」
 インターホンがなって、私は言葉を止める。最近買い物はめっきりインターネットに頼っている。部屋から一歩もでなくたって、この田中くんのための空間は、さらに広げることができる。髪の毛を少し正して、立つと軽い目眩でくらくらした。

 ドアを開けると、田崎が立っていた。叫びそうになる。でも私は田崎の家にもう行かないんだった、と思うと、その叫びすら知らない穴の奥へと沈んでいった。しかし手だけは反射的に田崎の身体を止めようとする。その間もなく田崎は身体ごと玄関に入り込んできた。口を手で押さえるような仕草をして、私にはもう感じなくなってしまったそれらから耐えるように息をのむ。
「だから、俺を家に呼ばなかったのか」
 謎解きにしてはすっきりしない。きっと。私は田中くんと田崎が会ってしまうことを恐れていた。決して田崎には田中くんを見ることができないとしても。玄関先に開きっぱなしの黒い折り畳み傘が、田崎を飲み込もうとするように口を開けている。部屋の中には、さらに大きなビニール傘、ピンク地に白い水玉模様の女子高生風な傘、シックで持ち手の部分がわっかになっているサラリーマンのような傘……全てが口を開けている。生活がそこにある。
「わからないの、」私は今度は何に駆り出されたんだろう、と思う。田崎は私の手を、どうにかしなければ、という強い気迫で掴んでいる。どうにかされてしまう、また。
「分別が、つかないのよ。ゴミも、私も。気付いたらわからなくなってて……」

 商店街の向こう側で、燃えていたアパートのことを思い出した。ドアが完全に開かれた私の部屋は久しぶりの光に一気に照らされて、部屋を覆いつくすような黒い雲が浄化されるように風に吹かれて動き出した。大変だったね。そんな声に、やめてくれ、と思う。言わないでくれ。
 このところ毎日私は、田中くんとお揃いの表情を浮かべているような気がしている。でも田崎には見えない田中くんは、このままだと消えてしまう。その後、私も。

もっと書きます。