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【小説】ものさしの人生


「二度と会うことのできない人ばかり、好きになるの」

 缶からグラスへと注がれたビールがしゅかしゅかと泡立っている。缶のままでのむなんておかしいよ。見た目も含めてビールなんだからさ。マキノさんは豪快に笑いながら綺麗な舌なめずりをしていた。初めて来た私の家なのに、棚の構造を元々知っていたかのように一瞬でグラスを見つけて勝手に取り出したので、おどろいた。
「それは一種の性癖かもしれないね」
 マキノさんは詳しいことを聞く前に一言そう呟いて、伏し目がちに鼻を触った。空の缶詰に、私の肘が当たって転がる。あ、と声を漏らす間に、底に残っていたツナの欠片がぽろりと床に落ちた。すかさずマキノさんはティッシュ箱を私に手渡した。いつだってどんな人よりもはやく動くのが、マキノさんだ。
 マキノさんは、私の勤めている印刷会社の上司だ。新人の頃、溢れるような書類の山を次々とコピーしていく私の背後に、気付いたら立っていた。君はコピー機に好かれそうだね。流れ出る書類をてきぱきと整頓しながら、くっくと笑って言った。その時点で、私がマキノさんについて知っていたことは三つだけだった。紅茶には絶対レモンを入れること。お昼休憩のときに必ず首を二回鳴らすこと。そして、私の同期の女の子と少し怪しい関係らしいということだった。最後の一つは噂だ。しかしその子が会社を辞めてしまったので、結局真実はわからないままだ。わざわざ聞くのも、品に欠ける気がした。そして月日が経って、マキノさんは今日私の家に来て、お酒をのんでいる。それだけが事実だ。

 私がマキノさんの言うところの性癖に気付いたのは、中学一年生の頃だったと思う。教育実習でやってきた先生。アキちゃんって呼んでくれ、と自分から言いだして、生徒の苦笑いを誘ったのが最初の記憶だ。アキちゃんは、体育会系という言葉を具現化したような見た目をした数学教師だった。積極的に先生に話しかけるようなタイプではなかった私は、いつもぼーっと、前から四列目の机に座ってアキちゃんにこぞって群がるクラスメイトを見ていた。
 実習期間が終わる日、私は日直だった。アキちゃんと一緒に、教材室に荷物を運んだ。教材室の中は埃っぽくて、粘土のようなにおいがした。私は指定された机に物を置きながら、アキちゃんの手に持っている大きな三角定規を見やった。実は、いつもアキちゃんが授業を行うたびに、私はそれから目がはなせなかった。先生しか持っていないものというだけで、魔法の道具のように思っていたのかもしれない。
「これ、いいよなあ」
 アキちゃんは私の視線に気付いて、掲げるようにそれを見せた。へらりと笑ったアキちゃんはきっと、中学一年生という年齢を、あまりよく知らないのだと思う。でもそれが余計に苦しかった。その頃の私は、子どもにも大人にも寄ることができていなかったからだ。それでもやっぱり子どものように、好奇心で三角定規にそろそろと触れた。チョークの粉が指先についたけれど、気にしなかった。私たちの筆箱の中に入ったものより何倍も大きなそれは、黒板にまっすぐな線を引ける。長さも図れる。直角だって簡単に作れる。いくつも用途を浮かべていると、透明な三角定規越しにアキちゃんの顔が覗いていた。私よりずっと大きな手が握り拳を作って、三角定規の持ち口を握っている。ふと、私はこの人の何分の一なんだろう、と考えた。そして、このままこの人とずっと一緒にいたらどうなるだろう。映画の主人公のように願ったのはそれが生まれて初めてのことだった。実習が終わったアキちゃんは勿論、次の日からは学校に来なかった。
 それから今に至るまで、六人程気にかけた人がいた。でも、皆いなくなってしまった。

「うまい具合に、君の前から姿を消すっていうのかい?」
 明らかに信じていない言い方だったけれど、決して馬鹿にはしているようには聞こえない、柔らかい声だった。
「ごめんなさい、私、酔うとすぐこの話しちゃうんです」
 嘘は吐いていなかったけれど本当に少しだけ、後悔していた。マキノさんの目をうまく見れなくなっていることに気付いていたからだ。マキノさんの指や皺、さらには膝までもが見る度に震えてきて、ついには下を向いた。蜃気楼のように目の前が歪んでいた。もう全てが明白だった。口元が覚束なくなってきて、目元には涙すら浮かんできそうになった。私は今マキノさんと、どうなりたいと思った? 殺人事件の犯人を問い詰めるように自分に問う。何も考えないで、と強く念じた。そしてマキノさんも、何も言わないで。同時に思ってみたが、それはマキノさんには無理なお願いだった。
「君は、だいじょうぶだよ」
 おどろいて舌を噛みそうになる。マキノさんが、私の肩の少し下に手を置いて撫でるように動かしたのだ。本当に、何もかもがはやい人だ、と思った。だから駄目なんだ、とも思った。背中が熱を帯びる。なにがですか、と聞き返すことはしなかった。そのまま包み込むようにマキノさんの腕が私の体を覆った。布のように、すぐにでも振りほどけそうな程に優しかった。プールオムが香って、部屋のにおいと混じる。寒くないのに熱くて、熱いのに寒かった。このまま……と、呼び起こすようについに私は思ってしまった。

「マキノさん」
 私は自分の肩をつぶすように握る。ブラウスの上に羽織ったカーディガンに皺ができて歪んだ。
「また、会えますか?」
 もう会えませんか? と聞くか迷った。できるだけ落ち込まない言いまわしを探したら、そうなった。マキノさんは片方の眉を下げながら笑った。
「明日も明後日も、仕事なんだから会えるに決まってるだろう」
 機械音をたてながら、エアコンが少し埃っぽい風を吹き出していた。バイクが三台エンジンを吹かせて通り過ぎる音がした。

 マキノさんの言うとおり、私は明日も明後日も、マキノさんに会う。でも私はもう二度と、今日のマキノさんに会えない。
 繰り返してきたことだったので、わかっていた。スモークチーズを掴む細長い人差し指と親指も、明日にはただの棒っきれに変わってしまう。目尻を彩りながら存在する皺も。宙をさまようように揺れる膝も。砂の城が崩れて波に流される様を思い描いたら、しっくりきた。
 玄関でマキノさんの後ろに立った影に向かって手をふって、今日が終わる。目線の下で靴を履くマキノさんはすでに私に向ける用の笑顔を習得してしまっていて悲しくなった。閉まるドアの音と一緒にマキノさんも、マキノさんの影もなくなった。部屋に戻って、なで肩をゆすりながらカーディガンを脱ぎ捨てる。シャワーを浴びて髪を乾かしたら、私は眠りにつく。マキノさんもきっと、眠る。私はしばらくしたら目覚める。またひとり、新しい影を背負って。

 アキちゃんの三角定規に触れたあの日から、私の感情は一日しか保てない。アキちゃんは姿も消したけれど、他の六人は別にいなくなったわけではなかった。でも、私にとってはいなくなったのと同じことだ。夜になって寝ると、泡のように浮かんだ気持ちも、気にかけた箇所も、全てが消えてしまう。私が思い返す過去の特別な時間は、一つ一つが全て二十四時間の中に詰め込まれている。思い出すのは、「あの人」ではない。「あの日」を、「その日」を。日記をめくるように噛みしめた。ぺらぺらの影を思っては泣いたし、笑った。そうして背中と胸に溜まっていく影を自覚するまでに時間はかかった。一日で戸惑って、失って、眠って、思い出が、影が増えていく。それが私の全てだったから、今更どうにもできない。白い煙が部屋を舞っている。灰皿の上のたばこが掠れた音を立てて消えていった。


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もっと書きます。