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【小説】エイリアンの利き手

 踊る小人を見たの、と珊瑚が興奮して私に電話をかけてきたとき、ツバルではもう新しい年を迎えるところだった。日本よりも三時間早く日付変更線を越えるこの国に来て、一週間目の夜だった。
 旅ではなく、旅行であった。足で歩くよりも早く時が進む場所に行きたくなったのが動機だったような気がする。むわりとした温風が顔を覆っては、練りつくように離れてくれない。日本とは二〇度以上の気温差があるので、三時間と言わず、冬・春、と二季節丸ごと通り越してきたような心地がする。自分を探す旅なんてよく言ったもので、衝動的な旅行というのは、自分の首根っこを持ち歩いてぶらぶら揺らし、こんなもんだよ、と鼻歌を歌いながら闊歩するためにある。

「こちらは真夏のようだよ。今ホテルに着いて、タロイモのアイスクリームを馬鹿な犬みたいに舐めている」

 無駄だと思われるような妙な乗継をして、ようやくフナフティ国際空港に着いたのは夜だった。機械音を合図にそう吹き込み、電話を切る。こちらにとっては遅い夜でも、日本では十分活動的な時間だ。しかしツバルからだろうと会社からだろうと、珊瑚は決して一度目の電話には出ない。

 ツバルに行ってくる、と言ったとき、珊瑚は津軽? と二度聞き返した。そんな寒いところに行ってどうするの、と言いたげに目を潤ませて、ポニーテールの端を指に絡ませた。ツバルだと理解した後は、眉を上にあげながらしばらく何かを考えていたようだったが、結局のところ、ふうん、という一言を発して静かになった。床に体育座りをして、裸足の指を器用に動かした。足を上下する度に長いモッズコートの下から、白いキャミソールとホットパンツが覗く。珊瑚は冬になるとお気に入りのモッズコートばかり着たがる。外を出歩くことなど滅多にないのに、それは珊瑚にとって上着であり、ユニフォームなのだった。草の影のような濃い緑色のそれは騒々しく落ち着かない衣類で、ちょっと動いただけでがさがさと草むらのような音を立てた。がさがさ、と。そこに、がが、とノイズのような幾つかの音が重なって聞こえるときは大抵、珊瑚が左手で自分の頬をぶっているときだった。珊瑚の左手は、珊瑚の身体の中で、唯一珊瑚の管轄外にあたる。

 搭乗口を抜けると、厄介な周り道や勧誘も何もなく、すぐに外に降り立つことができたので安心した。スケッチブックを持った雇われガイドがずらっと並んでおり、その中から一人に声をかけ、なんとなくついていくことにした。暗闇の中、歩きながら周りを見やると、黒い穴のような海に覆われているのがわかる。島国なので、当たり前のことだ。日本だって同じなはずなのに、リアス式海岸だなんだって言ったり、日本地図自体広げたりしてもわかるように、海に潔く囲まれていない。それに比べてここは、海に囲まれるという役目を素直に全うしているような心地がする。左、海。右、海。前、後ろ、海。そんな風に。
 その日はアイスクリームを食べ終えてすぐ、床についた。次の日の朝、ホテルの前で待っていたガイドにまた軽口を叩き、適当に連れていってもらうことにした。なんせ、この土地に知識は蚤程もない。


 昨日は穴のように見えた海は、明かりの下で見ると想像していた以上に自然創造的で、私の気持ちをいとも簡単に高ぶらせてくれた。しかしガイドに案内された海に面した植物遊園のようなものは、すかさずそんな気持ちを落としてきた。現地の子どもがあまりにも多く、植物遊園という名前にはそぐわぬ賑やかさであった。しかし、子どもを彩るように咲く南国植物はロケーション的にはもしかしたら、最もお似合いなのかもしれないとも思う。少なくとも、何色とも言えないシャツを羽織った私や、アロハシャツ一枚のガイドに比べたら、間違いなく。そんなことを考えると自然と笑みがこぼれる。そしてそんな私を見て、子どもたちが寄ってくる。結局のところ、私は楽しんでいるのかもしれない。子どもたちは私に臆することなく、私を連れて歩き回る。雇ってもいないガイドが増え、植物遊園の隅に連れられた。砂を落としたり飲んだりするための背の低い蛇口が五つ並んでいる。子どもたちは表情を豊かに動かし、蛇口を指さして叫ぶ。五つ並ぶ中の、左から三番目の蛇口は、ユーグデリの蛇口と呼ばれていて、そこの水を飲むと呪われるという伝承があるのだ、と子どもたちは言っているようだった。
「ユーグデリとはなんですか?」ガイドの口元を見やる。
「この地域では、海の悪魔をそう呼んでいる。ポセイドンも抑えることができなかったという神話もあって、海から現れるのではなく、蛇口のように狭い水口に潜み、人の鼻や口から侵入する。ユーグデリに入られた者は心を奪われてしまい、一生操られると言われているんだ」子どもの遊びの延長というやつだ、と小声で続けた。彼は優しいのだ、と私はそのとき思った。子どもたちに向き直ると、なるほど、この呪い話を信じてはいても、それ以上にこの話の共有を楽しんでいるような様子だ。

「君たちはこのへんに住んでいるのか」
 私がそう聞くと、丸い頭が次々と頷く。皆目が大きく、手足は棒切れのように細い。宇宙人のようにも見える。しかし、彼らにとっては私こそが宇宙人なのだ。私は先頭の少年の手を取り、手首を握った。ぶらぶらと、私の為すがままに彼の腕は揺れる。
「エイリアンハンドシンドロームというものがあるんだけど、」
 彼の動きが止まり、疑問を返すように私をじっと見た。周りの丸い頭たちも同様に、小休止。
「意思に背いて手が動いたり、動かなくなったりするんだ。それこそ、エイリアンがあやつっているみたいに」
 私も、数年前までは知ることのなかった言葉だ、と続けるより先に、植物園から生えるように伸びている砂浜の方から、もう一つの丸い頭が飛び出し、彼らを砂浜側へと呼びつける。それを合図に、少年たちはビーチフラッグを追うように駆けて行く。
 植え付けるように囁いたことを少し後悔した。この宇宙人の戯言をすぐに忘れて欲しいような、心の何処かで覚えていて欲しいようなジレンマが私の脳を揺らすような心地がした。

 珊瑚の左手が一度、私の首にかかったことがある。アパートの更新月がやってきて、引っ越しをする、しないでもめ、大声を出しあい、漫画のような大喧嘩をした。お互い、柄じゃないと思いながらの鬩ぎ合いだったので、知らないものに触れるように探り探りではあった。しかしそんな理屈は抜きにして、珊瑚は私に対して間違いなく怒りを覚えていた。そんな状態で、左手が視覚から蛇のような残像を持って飛んできて、私の首をしっかりと捉えた。珊瑚は私より力のない女性であることは確かだが、左手はそうだとは言えない。私の脳が走馬灯を作る準備を始めた。しかし、左手はそのまま私の喉仏を探るように撫でた後、布のように頬にかかり、珊瑚と私の目線を合わせるようにして、動きを止めた。それを見て何より驚いた顔をしたのは、私ではなく珊瑚だった。

「私の意思に逆らって困ることもあれば、本意に従順過ぎてしまって苛立つこともあるわ」
 モッズコートの襟は、珊瑚の輪郭もポニーテールも角度によってはすっぽり隠してしまうので、珊瑚がどのような表情でそう言ったのかは誰にもわからなかったーーもしかしたら、左手にはわかったのかもしれない。ーーただそれを合図に私たちは黙り込み、私たちは首を撫であうような仕草をした。結局珊瑚の意思に沿い、私たちはまだあのとき首を撫であったアパートの二階に住み続けている。

 キャリーケースをがしゃがしゃと玄関の段差に引っ掛ける私に、いってらっしゃい、と言った珊瑚の左頬には、昨日は無かった猫に引っかかれたような跡がある。玄関のカウンター上にあるアネモネからは、まだ先日あげた水が滴っている。この造花に水をあげるのは癖になり、いつからか習慣になった。休職願いを出したはずの会社からは、まだ引っ切り無しに電話が鳴りやまないので、私は携帯ショップに寄ってから空港へ出かけることになった。新しい番号は、珊瑚にだけ教えてある。
 私の仕事は所謂経理というやつで、部署、営業所、全てのお金に関わる書類は私にまわされた。私の右手は、キーボードとテンキーと電卓を人一倍早く打ち抜く能力を持っているので、ショートカットキーは何も考えずとも指が押さえてくれる。仕事にだんだんと慣れ、電話を受け継ぎながらもセルを思いのままに操ることができたとき、今のはあまりにも無意識ではなかったか? と珊瑚の左手のことを思い、感染したのかと考えたこともあった。しかしそれでも至って普通なのが私の右手であり、寧ろ別のもっと大きな何かを(何か、と形容してしまう時点で察してしまうが)操れない思いを抱える私の脳が鬱陶しかった。

 珊瑚の左手は珊瑚ではないが、珊瑚と無関係なものではないような気がしていた。それは決して常なる思いではなかったが、珊瑚の奥底に眠る意思が働いている、と感じるようになったのは今年の秋ごろからだ。眠っているとき、珊瑚の左手が、珊瑚の首をしめてしまわないように見守ることが多くなっていった。影の端が目の裏にちらちらと映るのを感じ目を覚ますと、珊瑚が左手に襲われ、暴れていた。即座に飛びかかって引き離し、事なきを得たが、それは一度ではなかった。珊瑚の首にはしっかりとした指跡と吉川線が現れ、消える頃になるとまたそれは起こった。その跡はどちらも珊瑚自身の指によるものなのだと思うと、下手な演劇のようで悲しくなった。珊瑚の左手は決して珊瑚にはとどめをささないことが、さらに私を悲しくさせる。それはより演劇的になってしまう、という意味合いでだが、珊瑚にはうまく説明できるかどうかよくわからず、どうも言えずにいる。とどめは、今のところさされていないだけであって、まだそのときが来ていないのかもしれない。この前、私が目覚めると、横に真っ白になった珊瑚が体育座りをして、ああ、また、されちゃった、と呟いた。こんなことが隣で起きていたのに起きなかった私の頭が、ようやくぱっちりと目覚め、強姦を受けた女学生と対面したような感覚が頭をよぎった。しかし、窓の外の朝はいつも通りに私たちを迎えていたし、珊瑚はしばらくすると笑った。ますます手放せなくなったモッズコートは、彼女を温かく包み込んでいるはずだ。そして私は旅行に出ることになった。イソギンチャクのようにひくひくと動きだす指の先に付いたネイルビーズへの不安が、私の時を無理やりに進めようとしたのだと思う。
 私がいつあちらへ帰って、会社の消費していく札束を数える仕事に戻るのか、私にすらわからない。年末はそのまま会社の年度末にあたる。しかし、そんなこと最早関係ない。ここではチップという余分な金がついて回る土地だから、正確な電卓があったところで、見合わないし蛇足なのだから。



 ツバルは、新年を迎えても日本のように騒がしくはなかった。受話器越しの珊瑚の声が生温く響いて、その後ろから、テレビ越しの鐘突き音が微かに聴こえる。踊る小人の話は鐘の音に沿うように、穏やかに消え入っていく。

「小人はね、目が大きいの、すごーく。顔の半分くらいめんたま。あなたの寝室のドアと廊下の隙間に埃がよくたまるでしょう。そこを指でなぞった時に、視界の端にいたの。蜃気楼って、ああいう風に見えるんだと思うわ。ゆらゆら、踊ってた。目線をそっちに向けると、ぱっと消えちゃった。見たら消えちゃうっていうこと、なんとなくわかってたのに、ちらって覗き見ちゃったから。私が消しちゃったってことになるのかな。でも、楽しそうだったなあ。また見れるかな。ねえ、そっちはどう? 海、綺麗なんでしょう?」
 おどけて、笑って、抑揚を付けて、制限時間にでも追われているかのように珊瑚はつらつらと喋った。珊瑚が家で、畳んだ洗濯物をひっくり返しながら角砂糖を舐めている頃、私は裏っかわの海岸で今日三つ目のアイスクリームを舌に溶けさせている。僕と珊瑚の生活から、ただでさえ足りなかった生産性が一気に枯渇した。ついに。
 珊瑚の首に三重目の跡ができた頃、珊瑚がふと、私のことを好きなの? と私に聞いたことがあった。私は、言うことを利くはずの自身の右手が熱くなるのを感じた。なんて不様なことを聞くんだ、と思った。珊瑚の左手のこと。ポニーテールの端がいつも丸まっていること。モッズコートに皺がたまってきたこと。行為的な好意の確認作業は、そのどれにも当てはまらない。しかし、珊瑚の左手が珊瑚にとどめをささないことは、その確認作業と同じくらい悲しいのかもしれないと、わかったことは少しだけ生産的だ。どちらにしろ私たちらしくない。いや、私たちらしいとは、それこそ、不様だ。珊瑚が見た小人が、珊瑚の視界の端にまた現れて、こうやって私に電話をかけてくることがあったとしたら、私はやっぱり悲しいのではないだろうか。そんな思いが、私をまたもや不様にさせた。聞いてくれるな。話してくれるな。いやいっそ、見てくれるな。私は珊瑚の目玉を焼く想像をした。続けて鼻、口、首、胴体、両足、右手。そしていよいよ残ったその左手と、私は向かい合い、珊瑚の話をしたかった。そうして生まれた会話はきっと、この電話を今すぐ切りたくなるくらいには実のあるものだろう。しかし私は、じっと珊瑚の話を聞き続けた。受話器を持つ手のことばかり、考えていた。

 電話を切った頃には、丁度一週間前、空港に降り立ったくらいの時間になっていた。私はホテルの窓から抜け、裸足を砂にうずめた。私のビーチフラッグは、あそこにある。そう思って子どものように駆けだした。赤や黄の南国植物も、夜には全て黒くなっている。そして囲むのはやっぱり、黒くどこまでも落とされてしまいそうな穴の海だ。左から三番目の蛇口の前に立つ。月明かりによって黒光りしているそれは、大砲のようにも見えた。きゅっと捻ると、遠慮がちに水が、不安定な強さで出てきて、だんだんと一本の直線へと安定していった。すかさず顔をおろし、浴びるように顔を洗った。

 珊瑚がエイリアンハンドシンドロームを患っている事実ではなく、珊瑚が珊瑚であるという事実が、いつの日か私の胸にフジツボを生やしてしまった。何かを強請るように太陽が私の肌を痛めつける。近いうち、紫外線がフジツボを焼いて殻が敗れる。中にはきっと輝く結晶が詰まっている。こんな空の下なら、アイスを食べながらそんな夢想はいくらでもできた。
 ふと、私の右手がもしも患ったなら、珊瑚の左手と絡み合うことがあるのかもしれないと思った。皺が増えた指を一瞥し、グー、チョキ、パーと順番に動かしてみる。静かに、関節が丁寧な軌跡を描く。この右手は一生私の命令に従うと同時に、一生願いは叶えてくれそうにない。

 蛇口を閉めた後も、手や顔についた水滴を、私は拭かなかった。ぽたぽたと滴る水滴が足元の砂を固めていく。幼い頃想像したエイリアンの血は緑色だった。身体は何色だっただろう。ツバル。ツバルは、人の名のような国名だ。私は珊瑚を私から離すために来たのだろうか、それとも珊瑚から私が離れるために来たのだろうか。ツバル。語りかけるように言った後、珊瑚のモッズコートの擦れる音が、唾を飲み込むのと重なって穴の方から聞こえてきた。




2015年2月 三題『アイス 緑 コート』

#三題噺

もっと書きます。