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【小説】空気を抱いて

 コンビニの自動ドアが開くと同時に、駆けていく智の足音が軽快だ。何があるわけでもないのに急ぐなぁ、と私はいつも思っている。
 智と出会ってから五年がたって、一緒に住むようになってから一年がたった。深夜の二時半。観たいテレビ番組があるわけでもなければ、特別眠たいわけでもない。おでんが冷める、というのがまだ一番、わからないでもないくらいの理由。でも智は、冷めたおでんを噛みしめるのが好きだと言っていたからやっぱりなぜそんなに急ぐのかわからない。

 それでも、何を急いでるの? と私は決して問わない。怯えるような顔で振り向く智が、容易に想像できてしまう。何よりも、きっと私が問いかけたことで智は足を止めてしまうだろう。それはなんだか嫌だった。駆けていくのに何の理由もなかったとしても、それこそ私にも、智が駆けていくのを止めるのに何の理由もないからだ。それに、智は何も言わなくても途中で足を止める。コンビニから私の家までは徒歩だと十五分かかる。智はいつもそのうちの五分ぶんくらいの距離を駆けて行き、決まった電柱で止まって、私が後ろからゆっくりと歩いてくるのを待つ。暗い一本道を歩いていくと、智の軽いシルエットが電柱から細く伸びているのが、だんだんと想像できてくる。私はそれを見ると毎回、昔読んでいた絵本に出てきたオバケを思い出す。子どもを怖がらせないようにシンプルなデザインで描いているのかもしれないが、子ども心にはそのシンプルさすら恐怖を増長させているように思えたオバケ。近付くと、智はじっと何かを見ている。それは空であったり、通る人であったり、ちかちかと点灯を繰り返す街灯だったりそのときどきだ。しかし、絶対に私を見ていることはない。私が声をかけてやっと、ああ、と気付くリアクションをする。それでようやく横に並んで、残りの徒歩十分を、二人で歩く。



「陸上部? じゃあ、足が速いんでしょう?」

 当たり前のように言ってしまった。私は生まれた頃からとにかく運動に縁がなくって、バスケットボールだったらNBA、サッカーだったらブラジル、と妙に直結したがる脳みそを持っていた。なんとなくのやりたいことと、体育が授業から無くなる、それはいいなんて少なからず考えながら入ったそれなりの私立大学で、市で活動している陸上部に入っているという智に出会って驚いて、思わず直結した答えを大っぴらに披露してしまったのだ。今となっては恥ずかしくって、智が少し苦笑いを浮かべながらミネラルウォーターを受け取ったのを見て首を傾げたことまでしっかりと記憶している。

 ただ実際に智は短距離走の選手だったので、私の考えなしに言ったことは、結果的には当たっていた。しかし智は陸上競技一つ一つについて、面倒な素振りを一切見せずに私に詳しく説明をしてみせた。それぞれに得意な競技があって、足が速いと言ってもそれは一概には言えない、例えば……、とその例えばだけで何時間も話した。智はとにかく陸上が好きな陸上部だった。オリンピック、 という言葉を人の口から聞いたことはあっても、出たいんだ、と続ける人に出会ったのは初めてだった。

「俺いっつもね、生きていて一番気持ち良いことってなんだろうって思うの。でもなんっかい想像しても、世界中の歓声を浴びながら一位でゴール。これ以上気持ち良いことが浮かばない。ゴールテープが胸にあたるのとか、ガッツポーズを握るときの拳の感触とか。きっと一位にとって、ゴール前とゴール後ではそこに流れる空気自体が違うと思うんだ。俺が走ってきた疲労とか、そんな何もかもをゴールテープは断ち切ってくれる。そして俺はただやり遂げたっていうその空気を思いっきり吸って、これでもかってくらい抱きしめてやるんだ」

 抱きしめるジェスチャーまでつける智に、私は面食らった。私が世界で一番気持ち良いと思うことは、二度寝とか、そういうものなのだけど。そう伝えると今度は智が面食らったようだった。


 入学式を終えて、智と一緒に帰ることになった。天気は快晴で、入学式というハレの日に、何よりも智の横顔によく似合っていた。私たちは話しているうちに、下宿が近いことがわかった。私と智の住むアパートは、線路を挟んで、真っ直ぐの線上に存在していた。二人で同じ坂を登り、同じように右折しながら歩く。智はその間もずっと、実現したいことを語り続けた。それがふと止まったかと思うと、私の顔を覗き込んで呟いた。

「俺の話さ、面白い?」
「面白いよ。私には発想することすらできないようなことばかりで」
「それがよくわかんないよ。だって俺、直感で思ったこと言ってるだけだぜ。川上が、陸上部なら足速いんでしょう? って言ったのと同じくらいに、単純だと思うんだけどなぁ」

 私は黙ってしまった。真っ直ぐなその視線に耐えかねて、懺悔するように私はふと思う。同じようだけれど違う。私は卑怯なことばかりしてきたような気がした。オリンピックと言われたときも、正直少し笑いそうになってしまった。オリンピックって、もう元々最初から才能みたいなのが備わっている人が選ぶことのできるルートなんじゃないの? と勝手に思っていた。私は何かを考えているとき、直接的に見る癖に、表面の地には本当は手を触れずに、先にその下にあるものまで見えた気でいる。私にとって夢は目を瞑っていると見るもので、決して昼に見るものではなかったし、目標はいつも手が届くところに作った。しかし智を見ていると、上京のために新幹線に乗り、初めて都会の駅に降り立ったときの自分によく重なった。私はあの日に限っては妙に、上の方ばかり見ていた気がする。ビルとか、夢とか。
 線路を挟んだ道に着いたとき、智が、大きく手を振ったかと思うと、くるんと軽い身のこなしで美しいターンをした。直線に伸びたコンクリートの地面を、一定のリズムで智の二本足が蹴っていく。一秒くらいなら、智は地球上から浮いていたかもしれない。人は、踊っているように走ることができるのだ、と思った。踏切の音が絶え間なく続く。さらに大きく激しい、電車が通過していく音が重なって、視界は遮られてしまった。通り過ぎた頃にはもう智の背中は見えなくなっていた。はっとして、また明日、と言うのを忘れてしまっていたことを後悔した頃には再び踏切が開く。私の直結が得意な脳みそが、震えていた。オリンピックとか世界一とか、そんな栄光への足音はよくわからないし聞こえてこないけれど、智のそれは確かにそのとき、私にとって栄光そのものだったように思えた。



 夜道を歩くと、時折窓から流れ出て人の住む家特有の匂いが鼻を掠め、咳払いや漏れたテレビの音、水たまりを踏む音も背景を彩る。今、私のすぐ近くでこの午前二時半を、全く別の面持ちで過ごしている人や物があるのを知っては不思議に思う。私はよく、自分が自分でなかったらというのを考える。大人しく布団で寝ている二時半、赤ん坊の夜泣きに悩まされる二時半、眠れなくって、なんとなく一人でテレビの砂嵐を見る二時半なんてのもあるかもしれない。私はもし自分がそういう状況になったら、という考え方はしない。その自分はもう自分ではなく、完全に切り分けられた別人で、今の私の記憶なんて必要としないのだ。
 智は隣でしとしと泣いている。見えないけれど、わかる。私の目が見えなくなってからは、それ以外の感覚が途端に鋭くなった。

 バイクの二人乗り。私は視力を失って、智は軽い怪我をした。それを知ったときは、智の足が犠牲にならなくてよかったと心の底から思った。なんせ、私は智の長くて尊いその足が一番好きだ。本人にも何度言ってきたかわからないくらい。そのときも、本当にそう思ったから、そのまま伝えた。しかし事故直後の私の感覚はまだ研ぎ澄まされる前だったので、伝えたとき、智がどんな表情をしていたのかわからなかった。そのときの私はまだ、病室の白い壁を想像するので精一杯だった。頬が軽く暖かかったので、私の病室の窓はどうやら右側にあるんだな、とかそんなことを考えていた。

 私と智の十分間は、大体一分くらいでいつも終わっているような気がする。それは何処と無く哀しいような気がするけれど、でも楽しい時間程はやく感じるものだという定説があるから、きっと楽しさに変換できるものなのだと思う。玄関前で鞄を漁りながら鍵を探す。吹き付けた風で、髪の毛がほんの少しだけ揺れた。なんだかフニャフニャだ、と思った。事故に遭うまでは、秋の夜風はもっと、強くて厳しいものだと思い込んでいた。それなのにそのまま掴んで、ポケットに入れられそうなくらいに柔らかい。対して、鍵を手渡したときに触れた智の手は、こんなにも固かっただろうか、と思った。智はここ最近、時々一人で固くなる。かしゃん、と鍵が落ちる音が聞こえた。フニャフニャな夜風が智にもきっとあたっている。それなのに、智はぎちぎちに固いままだ。智の口が開く音が鼓膜に触る。

「なんのために俺、急いでるんだろうな」

 急いでたんだろうな、と言い直して続けて、もう一度繰り返した。バイクの部品が弾け飛ぶ光景が、フラッシュバックするように私の真っ黒の視界に浮かぶ。回転したそれが、3D映画のようにどんどん近付いてくるのをはっきりと覚えている。幼い頃に隕石が地球に落ちてくる夢を見たことがあるけれど、今思えばあれはやっぱり紛うことなき夢だった。速度も規模も、あのほんの小さな破片よりもリアリティがないのだから。
 智は餌をねだる鯉のように、口をぱくぱくしながらきっと泣いている。ああ、どうして急ぐかなんて、やっぱり理由はなかったのだ、と私は口を閉じて嬉しくなって確認するようにほくそ笑む。
 事故の前が、そうだった。大学四年生で、私も智もやらなくてはいけないこととやりたいことが全く噛み合わなくなった。私たちはとにかく、日々を急いでいた。そんな中で智は免許を取った。バイクを買ったときは、私をわざわざ呼び出して、目隠しをして駐車場に連れて行った。そのバイクは全体が黒く光っていて、黄色い線が何本か、その黒を飾るようにさりげなく入っていた。バイクに二人で乗ると、何処か別の世界にタイムワープできてしまいそうな気持ちになった。初めは海に、次に山に、と次々色々な場所を、何かに誘われるように訪れた。スピードがのってきて風に全身が包まれるときの快感で、二人で声にならない声をあげた。自分たちが凄く速くなった分、周りの何もかも、時間ですら遅くなるように感じられた。もっと速く、もっと速く、私は智を急かした。智も、これが本当に空気を抱くってやつなのかもな、なんて皮肉じみたジョークを言ったりした。私たちは薬物反応が出てもおかしくないくらいにはハイだった。その結果のオーバードーズとして、私は暗闇を手にいれた。智も、それにあてられるように黒くなった。
 しかしいざそうなってしまうと、今度は私だけが妙に落ち着いてしまった。それはそれで、そういう時期になったのかなぁと思ったくらいで、根本の引っ込み思案な自分に久しぶりに再会したような、少し幸せな気すらしていた。時期も過ぎ、変に急ぐ必要もなくなった。智は、今も急いでいる。私の代わりとでも言いたげに。意味もなければ、方向もわからないのに。でもそんな智は、いつまでも夏休みの宿題が終わらない子どものようで可愛くて、私は好きだ。私は元々、急ぐ人間じゃなかったからこれでいいけれど、智は急いでいる方が似合っている。ただ、智が泣くのだけは少し哀しい。夕立みたいに降り落ちていく涙には、どうしようもない不穏さが含まれている。そして泣くと、智は決まったように謝り続けるからさらに哀しい。急ぐことに意味なんてないのと同じように、謝ることにも意味がないことを智はよくわからないらしい。そう、智はきっと、ずっとわからないままなのだ。

 もう二度と目が見えないのだと聞かされたとき、わたしはそっか。と答えた。ベッドの軋む音で無機質な香りが漂って、左隣では智が信じられないような目で――それは想像だけれど、何度考えてみてもきっとそうに違いない――私を見ていた。
 私が落ち着いていられたのは、智の足が無事だったことの他にもう一つ理由があった。私はまず自分の視界の記憶を自然と遡ろうとした。智の腕や足、家の近くの雑貨屋への道、そして間取りなど、思い出すものが決まっているかのように順番に浮き出てきた。そのとき、私が本当に思い出したい光景は、もうその暗闇の中にきっちりと保存されていることを悟り、安心したのである。そして同時に、私は周りのものがこれまでもあまりよく見えていなかったことに気付いたのかもしれない。いや、見ていなかったと言った方が正しいだろうか。数年前に訪れた東京タワーの形はなんとなくわかっても、それがどのくらいの威圧感があって、どのように影を落とすのかさっぱり思い出せないし、思い出す必要もないように感じる。智が土を撫でるように蹴り上げるクラウチングスタートの、入り方からは思い出せるのに。今は暗闇の中に浮かぶそれは、きっと前はピント合わせの下手なぼやけた視界に浮かんでいた。ただそれだけなのだと思った。

「智? 私、大丈夫だからね」

 黙りこくった智にそう言うと、俺は何処にも行かないよ。と、掠れた声で答えながら私の手を握った。会話は成立していないし、頬とは対照的に智の手は氷を触ったみたいに驚くほど冷たかった。
 私はそのとき智に、どこかに行ってほしかったのかもしれない。走っていく後ろ姿なら、はっきりと思い出せるから、と思っていた。冷たい手で、震えながら私の手を握る智は、私には見えないのだから。走って行ってしまうよりも、ここに黙っていてしまう方が、智がここに居ないみたいだと思った。しかし、私はそれをうまく智に伝えられる自信がなかった。そこで初めて、目の見えない人と見える人ではどうしても景色がずれてしまって、会話がうまくいかないのかもしれないな、と思った。私の手を握るそれは智ではなかった。宇宙人のように異質で、透明人間のようでもあった。

 智は今も変わらず急いでいるのに、急ぎ方は変わってしまった。変わってしまったから、見えなくなったのだ。急いでいると思ったら、ぴたりと足を止めて振り返って私をじっと待っている。そして私がゆっくり近付くと、それが常であるかのように抱きしめる。なんで急いでたんだろうな。もう何回聞いただろう。何度私はほくそ笑んだだろう。髪の毛がうなじで絡んで、襟足が擽ったい。研ぎ澄まされた聴覚が智の身体の音を聞き分ける。私は、智の中を流れる音を探るように目を閉じる。血とか空気とか、智が空洞ではないことをただ確かめようとする。前なら、何もわからなくったって暗闇を走っていたのに、今の智は簡単に止まってしまう。足が覚束ない智なんて、私には見えない。それはやっぱり智じゃないのだと思う。先を必死で見据えて、そこに崖があるのか、踏み外したら落ちてしまわないかどうか。そんなことを気にしてしまうようになったから、智は変わってしまったのだと思う。だから、いっそ私の暗闇に智を放り投げることができたら、二人とも幸せになれるだろうか。そんなことを、最近よく考えている。智が二度と乗らないと決めてしまったバイクのことも、私は未だに忘れることができない。智が生まれ変わったらバイクになるのはどうだろう。私を乗せて、何処までもいつまでも、タイムワープを続けるのだ。智は私がそんなことも考えていることなんて知らずに、深く深く、闇に閉じ込めてしまおうとするように私を抱きしめる。私は耳元で囁く。智も続けるように囁く。吐息はゆらゆら揺れていて、蜃気楼を作り出しそうな予感がした。

 智が見えないよ。
 ここにいるよ。
 見えないもの。
 でも、触れてるだろ?
 うん。でも、触れてるのは智じゃないの。
 俺だよ、俺だ。

 このままだと智が参ってしまいそうだったので私は妥協するように小さく頷いた。真っ暗の中で誰か知らない人に抱き締められているようで怖くて、身体が小刻みに震えた。その震えを悲しみとはき違えて智はさらに力を込めた。だんだんと、智の身体からは何も音が聞こえなくなっていく。私は一人だった。


もっと書きます。