♢【わかりにくい"わかりやすさ"】
知り合いのTwitterでこの記事がリツイートされてきた。
96年まであった「らい予防法」、現在もある13の国立療養場で暮らしている1090人の人たち。
記事中で全国の国立療養所を撮影していったカメラマンの石井氏は「(前略)知れば知るほど、同じようなことは起こりうると感じてしまうんですよね。僕は逆に『なんでこんなことが起きたんだ?』って言ってる人のほうが怖いです。十二分に起こりうることであるという前提に立たないと、見誤る可能性がある」と述べている。
「そんなこと起こるのはあり得ない」と叫ぶに足りる事柄がたくさん起こっている。「なんでこんなことが起こるんだ!」という憤りと疑問。
だけどそう考えること自体が誤りなのかもしれない。
「ちょっと考えればわかること」は本当に「ちょっと考えればわかること」なのか。
『心配事の9割は起こらない: 減らす、手放す、忘れる―禅の教え』という本が少し前にはやった。
確率で見れば起こる確率は僅か10%に過ぎないのかもしれない。
だけど、その10%はただの確率で見ていいことではないと思う。
起こるべくして起こる10%として意識する。
また、この記事から『差別はかんたんにつくれてしまう』ということがわかる。
「差別はやめましょう」「相手のことを理解しましょう」なんていうのは、差別の存在自体を否定することだと僕は思う。
相性や直感による好き嫌いという言葉で括られてしまう。
極端に現れている例だと思う。
自分に合わない人、嫌いな人とは簡単に縁を切ることができる。SNSで「ブロック」とすればそれで一発だ。
ドラえもんの、どくさいスイッチを思い出す。
ただあれは、独裁者を懲らしめるための道具。自分に都合の悪い人たちを消していくということをしていった結果を示す道具なのだそうだ。
どくさいスイッチが今の世の中にこそ求められるのかもしれない。